『消費社会の神話と構造』J.ボードリヤール,1970

現代が消費社会と呼ばれるようになって久しい。

私たちの周りにはどう考えても過剰すぎるほどのモノが氾濫している。ボードリヤールはそんな現代社会を「モノのジャングル」と表現した。そして、その中で生きる私たちは「現代の新しい野蛮人」であるとー。

『消費社会の神話と構造』が最初に刊行されたのは1970年のフランスであった。およそ50年が経過した現代においても、本書の内容は示唆に富んでいる。

ボードリヤールが50年前に見た「神話」は、今なお健在なのである。

否定されるべき「神話」とは

本書はまず「豊かさと成長の神話」の否定から始められる。「豊かさと成長の神話」とは、資本主義社会において、経済成長によって全ての人々が幸せになることができるという考え方だ。

この考え方を採用する時、「幸せ」という概念は「平等」と結びつけられ、計量可能な物質的豊かさを全ての人に行き渡らせることが至上命題になる。経済成長によって社会における富の絶対量が増加すれば、いずれ全ての人が豊かになるというわけだ。

ボードリヤールは、この神話に対して二つの視点から反駁する。経済成長を計測する指針への疑問、そして現在の資本主義システムそのものの欠陥である。

経済成長の簿記化、あるいはGNPの神話

GNPとは、ある一定期間にある国民によって新しく生産された財やサービスのことを示す経済指標※である。しかし、経済成長を示すこの数値は「現代社会の最も驚くべき集団的欺瞞」であると切り捨てられる。

この数値が「夢に似ていないこともない」のは、経済成長を計る数値の上では、肯定的要素も否定的要素も何もかも黒字に転換されてしまうからだ。

帳簿の上では、公共施設の修理費や核弾頭の生産など、明らかに社会の発展ではない部分の支出まで、経済成長として黒字として現れる。例えば、壊れた公共道路の修繕費などがそうだ。マイナス要素を補填したからといって社会が豊かになったとは言わないだろう。しかし、会計上計量可能である支出は全て肯定されてしまうのである。

道路の補修、公害への対策、軍事費の支出、、、。これらは全て経済成長が生み出したひずみの補填、あるいは社会システムを維持するための支出である。これらの支出の意味するところは、成長によるひずみを更なる成長によって補填しているという閉塞状態なのである。

要するに、経済成長と豊かさの力学がいたるところで堂々めぐりや空まわりをし、システムが自己の再生産過程で次第に消耗するに至った。つまり生産性の向上分が、システムの存続のために使われるという閉塞的状況なのである。

『消費社会の神話と構造』 p23

実際には何も社会の発展に寄与していない支出でさえも、生産されたという事実に基づき肯定され、会計上は経済成長の証として現れる。「数字の権威を借りた魔術」と言う他ないだろう。これが「国家会計のばかげた操作」の仕組みである。

経済システムの構造的欠陥

成長がわれわれを豊かさから遠ざけもしなければ近づけもしないという事実を確認しなければならない。成長は、ここでは決定的審級である社会構造全体によって、豊かさから論理的に切り離されているのである。

『消費社会の神話と構造』 p66

目に見えている貧困は幻想である。

これまでの経済学では、貧困は経済システムの機能障害、つまり一時的な不都合として考えられてきた。貧困は一時的なものに過ぎず、経済成長によってやがては吸収され、社会の隅々にまで富が行き渡るというのである。

しかし、現実問題として貧困はなくなっていない。本書が刊行されてから約50年が経過した2018年の現代においてですら、だ。

それは、経済システムの内部に富のヒエラルキーが構造的に組み込まれているからである。社会が選択している社会構造には、システムのレベルで所得のデコボコが存在している。つまり、そのシステムを社会が採用している以上、貧困と呼ばれているものはそこに存在するべくして存在しているのだ。

富の絶対量がたとえどれだけ増えようとも、体系的不平等がシステムの論理によって固定されている以上、そのシステムを採用している限りにおいて不平等はなくならない。

実をいうと、「豊かな社会」も「貧しい社会」も未だかつて存在したことはなかったし、現在も存在してはいない。というのは、どんな形態の社会であろうと、生産された財と自由になる富の量がどれほどであろうとも、あらゆる社会は構造的過剰と構造的窮乏とに同時に結びついているからである。

『消費社会の神話と構造』 p65

内部に予め貧困が組み込まれているシステムの中で生活している以上、私たちが貧困と呼ぶものには原因も対処法もありはしない。「解決されるべき課題としての貧困」は、幻想なのである。

消費の社会学的論理

経済学的な「豊かさと成長の神話」は否定された。したがって、この論理とは異なる枠組みで消費社会について分析する必要がある。

そこで登場するのが、本書のメインテーマでもある記号論だ。記号論とは、モノの価値はモノそのものの使用価値ではなくモノに付与された差異化の記号にある、という社会理論である。

成熟社会と呼ばれる現代において、モノの機能性のみへの欲求はもはや存在しない。なぜなら、人類の物理的生物的欲求はほぼ完全に満たされているからだ。現代において、生物として生存するために必要な最低限度の水分や食料などを心配することはあまりないだろう。

それでは、私たちはいったいなんのために知り欲求以上のモノを消費するのだろうか。記号論ではそれを、他者との差別化を果たすためだと捉える。他者との差別化とはすなわち、「個性的でありたい」という欲求である。

生物の水準での平等はほぼ達成された。その次に現れるのが、この「差異化への欲求」なのである。言い換えると、自己アイデンティティの獲得だ。

モノに付与されている記号とは、すなわちブランドであると捉えることもできる。例えばベンツを買ったとき、私たちは「車を買った」とはいわないだろう。ベンツを買ったときに私たちが消費しているモノは、「移動手段としての自動車」ではなく「ベンツという記号」なのである。そしてさらにいうと、「ベンツという高級ブランドを身につけた自分自身」を消費しているのだ。それはもちろん、他者との差別化の欲求を満たすためである。

人々は決してモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を自己の集団から抜けだすために、人びとは自分を他者と区別する記号としてモノを常に操作している。

『消費社会の神話と構造』 p80

この記号消費には二つの特徴がある。それは、「あらゆるモノの相対化」と「無限の差異化の強制」である。

あらゆるモノの相対化

社会の本質を「記号の消費」であると捉えたときに、あらゆるモノは記号の水準での等価物として浮かび上がる。モノの本質を差異化の記号とするならば、「差異を表す」という意味作用において序列は存在しないからだ。

ベンツであれBMWであれトヨタであれニッサンであれ、「差異を示す記号」としての価値は等しい。トヨタとベンツの車それぞれについて、本質的にどちらが優れているかを示すことはできない。移動の手段という機能的価値において等価な以上、あとは「各人の好みの問題」というわけだ。

記号のレベルでは絶対的な富も貧困もなければ、富の記号と貧困の記号との対立もない。それらは差異の鍵盤上のシャープとフラットにすぎない。

『消費社会の神話と構造』 p137

この記号としての相対化は、商品やサービスだけにとどまらない。「記号の消費」によって社会が成り立っている以上、文化や歴史、思想や宗教、肉体や時間さえも、記号として等価性をもつようになる

この記号の消費社会は、これまで貨幣経済の枠外にあった分野でさえ、差異化の記号という枠組みのもとに飲み込まれていく可能性を秘めている。時間や肉体的特徴、思想や宗教など、これまで神の領域とされてきた分野でさえ「差異の記号」になるということは、つまり全てが代替可能な存在として私たちの前に現れるということだ。

代替可能な記号になるということは、ある一定の価値観の下で自己イメージを獲得することが不可能になるということを意味している。

自己の拠り所となりうるものさえ記号の相対性にさらされ、人々は自己の確立のためにますます記号を消費するようになるであろう。

無限の差異化の強制

記号の消費によって他者との差異化を図るという行為に終わりはない。前項でも述べた通り、消費の記号は相対的なものである。相対的な記号をいくら積み重ねたところで、それらは全て代替可能であるという点において「絶対的な個性」になり得ない。

このシステムの悪魔的なところは、他者との差異化のために記号をいくら消費しても絶対的な個性は永遠に手に入らないという事実をほとんどの消費者は知ることすらないという点だ。

消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。

『消費社会の神話と構造』 p80

この原理は、実は資本主義社会の発展過程と深く結びついている。というのも、人類が生物としての生存欲求以上の発展を望んだ時に作り出した欲望が、差異化の欲求であるからだ。

食欲や性欲など人間の生物としての生理的欲求には限界がある。それらの生理的欲求に固執する限り、人類はその欲求の範囲でしか発展できなかった。ほぼそれらの欲求を満たすことができる社会になった時に、次の段階に進めるために見出したのが差異化の欲求というわけである。

差異に終わりはない。人類はその文明を発展させるために、自らを無限の差異化の欲望の渦の中に閉じ込めてしまったのである。

所得、みせびらかし的購買、過剰労働は、狂った悪循環、つまりいわゆる「心理的」欲求の高揚に消費の地獄のロンドを形成する。これらの欲求は「自由裁量的」所得や選択の自由の上に成り立っているようにみえるという点で「生理的」欲求とは異なり、こうして意のままに操作できるものとなる。

『消費社会の神話と構造』 p102

差異化の中の人間像とは

ところで、リースマンはこう書いている。「今日最も求められているもの、それは機械でも財産でも仕事でもなく、個性である」。個性化についての呪文のような文句の繰り返しは、次のスローガンによって頂点に達する。「あなたの手であなたの住まいを個性的に!」。
このように自分のことを「幾重にも重ね合わせる」方式は現在進行中の事態の真相を打ち明けてくれる。真相をあからさまにできないためにもがいているこのレトリックのすべてが語っていること、それは個性など存在しないという事実に他ならない。

『消費社会の神話と構造』 p131

資本主義との結びつきからも明らかなように、個人に降りかかる終わりなき差異化の強制は次第に社会的なものとして姿を現すようになる。

消費の原則と目的が享受ではないことの最良の証明のひとつは、享受が今日では権利や楽しみとしてではなく、市民の義務として強制され制度化されているという事実である。

消費者つまり現代社会の市民にとって、幸福と享受のこの強制から逃れることは論外だ。

『消費社会の神話と構造』 p116,117

ボードリヤールは、「消費による差異と幸福の記号の享受は市民の義務でさえある」と断じる。現代にあふれる広告は、ある特定商品の宣伝であると同時に、この消費社会自体のイデオロギーの拡散である。

もはや成長失くしてシステム自体が成り立たなくなった社会、「自由と平等を獲得せよ!」という号令の下豊かさは強制される。

私たちは自由と平等の衣をまとった消費の暴力に常にさらされているのだ。消費社会、それは平和と平等の世界であると同時に暴力の世界である。この社会の中では、消費することが市民権を得るための条件だ。

イデオロギーによって包み隠されてはいるものの、私たちはこの強制をふとした瞬間に感じることがあるのではないだろうか。消費が全面的に肯定されているという事実はふとした瞬間に顔をのぞかせる。

そしてこのような目に見えない暴力にさらされた社会は、その帰結として様々な反作用を生み出す。

暴力

豊かさが暴力的に強制されるならば、その反作用として暴力が生まれるということ容易に理解できるだろう。

豊かさが歓迎されるべき肯定要素として理解されている限りにおいて、この新しい暴力は私たちの前に不可解な怪事件として現れる。神戸連続児童殺傷事件や地下鉄サリン事件など、動機の不可解な暴力事件は日本国内においてもたびたび起こっている。

もし豊かさが自由を意味するなら、こうした暴力の発生はとうてい考えられないが、豊かさが強制だとすれば、この暴力はおのずと理解できるし、豊かさの論理的帰結とみなすこともできる。

『消費社会の神話と構造』 p310

貧困や困窮、社会的搾取などが生み出す暴力とは全く性質の異なるこれらの暴力こそ、消費の暴力に対する暴力の噴出である。

疲労

新しい型の暴力に対象がないのと同じように、現代の疲労には原因がない。

『消費社会の神話と構造』 p322

労働者=消費者は疲れ切っている。豊かさの強制、消費の強制、差異化の強制など、ひとつながりになっているこれらの暴力的強制にさらされ続けることは私たちが想像する以上に苦しめられている。

うつ病、ノイローゼ、ひきこもりなどの現代病は、消費の強制という記号論的解釈でとらえられるべきなのかもしれない。原因なきこれらの精神疾患は、暴力への「潜在的異議申し立て」なのである。

悪魔との契約は果たされた。現代における神話とは。

『アダナのテオフィルス』 photo by Wikimedia Commons

魂と引き換えに金と富をもたらした悪魔にむきだしの豊かさが、そして悪魔との契約に豊かさの約束が取ってかわったのだ。悪魔の最も悪魔的なところは悪魔が実際に存在していることでは決してなく、そう信じこませることだったのと同じように、豊かさは現実には存在していないのだが、この豊かさが有効な神話となるためにはその存在を信じこませさえすればよいのである。

『消費社会の神話と構造』 p341

古来より続く御伽噺、悪魔は魂と引き換えに富・名声・美しさ・権力などをもたらすとされてきた。そして、悪魔との契約譚のエンディングは、悲劇でしかありえない―。

私たちが生きるこの世界は、すでに悪魔との契約を果たしてしまった、あるいは果たしつつあるのではないだろうか。

人類という生物が生来持っていた生理的欲求以上の発展を望み、そしてそれは「消費という悪魔」との契約によって得ることができた。

自分自身ですら把握できないほどの「モノ」と引き換えに私たちが悪魔に引き渡したのは、アイデンティティという名の魂だ。これだけモノが溢れかえった時代において、慢性的な自己への不安を誰もが持っていることはその証左だろう。

いくらモノを消費しようとも、それによって失くしてしまったアイデンティティは表現できない。記号としてのモノは全て代替可能であるゆえに、抜け落ちたアイデンティティの穴に収まることはないのである。

しかし、人類が人類たる以上、アイデンティティの探求を辞めることはできない。パラノイックで自己言及的な記号の積み重ねの行きつく先はどこなのだろうか。

モノの背後には、虚ろな人間関係があり、膨大な規模で動員された生産力と社会的力が物象化されて浮きぼりにされる。ある日突然氾濫と解体の過程が始まり、一九六八年五月と同じように予測はできないが確実なやり方で、黒ミサならぬ白いミサをぶち壊すのを待つことにしよう。

『消費社会の神話と構造』 p347

ボードリヤールは、『消費社会の神話と構造』の名の通り、本書の中では現代における神話とその構造しか明らかにはしていない。この社会が最終的にどこに行きつくことになるのかという結論と、それに伴う課題とその処方箋はどこにも提示されていない。

彼が50年前に提示したこの神話は現代においても有効であり、「神話の続き」は今なお明示されていない。

ここから先は、私たち自身が見届けなければならないのであろう。

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