二冊の書物から考えた、<本>と<教養>と<メタ知識>についての雑記

読んでいない本について堂々と語る方法 ピエール・バイヤール

なぜこの本を読んだのかは言うまでもない。読んでいない本について堂々と語りたかったからだ。近頃やっとこさ学問の入り口に足を踏み入れようとしている(少なくとも、そうしたい)僕だが、まるで侵入を拒むような本・本・本の山には正直辟易とさせれらる。学問をする以上、数多の書物に立ち向かう必要があることはもちろん理解しているが、それにしたって多すぎないか?学問をする前に、書物との戦いだけで人生終わりそうだ。こんな葛藤を抱く僕は、本書に一筋の光明を見た。そんな方法があるならぜひ教えてくれと、僕はこの本をめくった。

バイヤールは読書に関する規範として、①本を読むべきだという読書規範、②本は初めから終わりまで読むべきだという通読規範、③本は読んでから語るべきだという語りの規範の3つが存在すると主張する。本書はこの規範の解体から始められる。
上記3つの規範が成り立つには「読んでいる」と「読んでいない」の間に明確な境界線が必要であるが、しかし通常読書という行為は非常に曖昧なものである。そもそも「本を読んだ」ことの定義は存在しうるだろうか。例えば、ある書物を何十時間もかけて精読し、かつその書物に関する詳細な批評を執筆したらならば、それはその書物を読んだことになるだろうか。どれだけその時点において書物を理解していたとしても、情報を記憶として保存している以上時間の経過とともにその情報は劣化していく。読書の本質を情報のインプットとするならば、「読んだことはあるが忘れてしまった本」は読んでいないことと同義であるだろう。また、例え書物に保存されている情報が絶対的なものであるとしても、それを読み取る人間は絶対的な存在ではないため、統一的な書物の理解というものは存在しない。同じ本を読んでも捉え方は人それぞれなのだ。その本を一行も読んでいないが、その内容をほとんど知っているという場合も考えられる。他の人から聞いたことがある本や世間で話題になっている本など、読んでいなくてもその本の内容をある程度理解してしまったという経験は誰しも持っているだろう。このように書物の内容理解の様々なバリエーションを見てみると、結局「読んだ」と「読んでいない」の違いは程度差にしかすぎないことがわかる。であるならば、読書という行為は一体どこに焦点を置いて理解するべきなのだろうか。バイヤールはこの点について、2つの解答を示している。まず1つ目は、「全体の見晴らし」をもって書物を捉えるというやり方だ。

ムージルの司書の賢明さは、まずは全体という概念の重視にあるが、それは、真の教養とは網羅性をめざすもので、断片的な知識の集積に還元されるものではないということを示唆していると考えられる。 p31

真の読者が把握を試みるべきは、書物どうしの「連絡」や「接続」の理解であって、個別の書物ではない。その書物がある教養体系の中でどのような役割を果たしているのか、またどのような経緯で存在するものなのか、書物は全体の中での位置関係で把握するべきなのである。つまり、個別の書物の知識ではなく書物を取り巻く教養というメタ知識こそが重要なのである。

鉄道交通の責任者が注意しなければならないのは列車間の関係、つまり諸々の列車の行き交いや連絡であって、個々の列車の中身ではないのと同じである。これを敷衍していえば、教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。 p32

必要なのは、本の山と対峙することではなく山に登って上から眺めることだ。読書という領域において、書物と教養を個別的なものと全体的なものという対比の枠組みで捉えなおすことによって、「読まない」読書という概念が存在できる。位置関係の把握が個別の理解を超えて重要なのであれば、もはや個別の読書という取り組みは必ずしも必要ではないからだ。知識の源泉としての教養への回帰は、読書に新たな地平をもたらした。そして、「全体の見晴らし」から書物を捉えたうえで<創作者になること>が、バイヤールが提示する2つ目の読書論だ。

読んでいない本について語ることが正真正銘の創造活動であり、そこでは他の諸芸術の場合と同じレベルの対応が要求されるということは明らかである。そのことを納得するためには、そこで動員される様々な能力、つまり作品に潜在する諸々の可能性に耳を傾けたり、作品が置かれる新たなコンテクストを分析したり、他人とその反応に注意を払ったり、さらには人の心をとらえる物語を語ったりする能力のすべてに思いを馳せれば十分だろう。 p270

読書とは究極的には新たな知を生み出すための通過点にすぎない。であるならば、個別の書物に没頭しすぎることはむしろ危険であるとさえ主張される。なぜなら、過去の書物に囚われることは新たな知を生み出すこととは程遠いものだからだ。個別の書物への傾倒は自己喪失のプロセスの一歩目であり、表現者としての独自性の解体に繋がる。そして、読まずに語るために必要な諸々の行為に思いを馳せれば、それ自体が芸術と成り得るとバイヤールは言う。読書の究極目標は新たな知性の創造という部分に置けば、読書と創造とのあいだには一種の二律背反が存在する。新たな知性の創造に読書は必要不可欠だが、読書ほど創造と程遠い取り組みはすくない。読んでいない書物への批評は、こうして古今東西の創作活動と同じ次元まで高められる。

書物を他の書物との関係性の中で捉えること、読書の企ては新たな知の創出にこそ見出されるべきであるということ、この2つの取り組みがバイヤールの主張である。しかし、ここで少し立ち止まって考えてみよう。書物がその内容以上に教養体系の中での「位置関係」が重要であるならば、到底看過できないパラドクスが生じることになる。書物の持つ知識をある教養体系の位置関係の中に見出すべきだとすると、その教養体系全体についてのメタ知識を持っていなければならない。このメタ知識は、一体どのようにして身につければよいのだろうか。執筆された時代背景、関連書籍群、作者の経歴、根底にある思想など、一冊の書物を執筆するために俎上に載せられる知識群は膨大だ。これらの知識を、一切書物を読むことなしに身につけることは可能であろうか。また訳者あとがきにも綴られている通り、知識の価値を教養体系の中の位置関係に求めるならば、本書の主語を「映画」、「講義」、「インターネット」など読書以外のあらゆる情報収集手段に読み替えることはさほど難しくない。読書のない教養の獲得はありえない。以上のことを考慮すると、本書で語られている理論の「実践」は原理的に不可能であるということになる。「読まないことはこの作家に対する最大の賛辞ですらある」とバイヤールは語るが、「読むために、読まない」ためには「読まないために、読む」ことを要求するというパラドクスに陥る。もし僕がこのパラドクスについて懇切丁寧にバイヤールに向けて講釈を垂れたとすると、どういった返答がなされるだろうか。おそらくバイヤールは「してやったり」という笑みを浮かべてこう返すだろう。

「そのパラドクスに思い至るまでこの本を精読しているならばわかるだろう?君がこの本について想いを巡らせ批評をしている時点で、「読書」という教養体系の中に本を位置づけて新たな言説を生み出すという目的は達成されているじゃないか」と。

本書の最大のポイントは、知識ウェブ上の網目として書物の在り方が再帰的だということを、本書自身が体現しているという点にある。「全体の見晴らし」によって書物は理解されるべきだという本書の主張は一見すると単純であるが、その構造は幾重にも重ねられたパラドクスによって始めて成り立つものだ。本書が内包する読書・非読書のパラドクスは、内容を超えた時空にその価値を見出すというメタ理論によって回収される。内容理解を超えたメタ知識の重要性は、まさに本書が持つ構造的パラドクスによってはっきりと浮き彫りにされているのである。メタ的視点によって生じたパラドクスが、まさにこのメタ性によって回収される入れ子構造のこの仕掛けは、おそらく本書を精読しないことには気づかない。「読んでいない本について堂々と語る方法」を語るためには、精読が必要なのである。また、そもそも「読んでいない本について語る方法」など本書にはほとんど書かれていない。この二重三重に張り巡らされたパラドクスこそが、本書の面白さの源泉だ。

「読んでいない本について堂々と語る方法」などという、いかにもキッチュな、シニシズムに溢れた邦題は、きっと輸入されるにあたり日本人受けするように改編されているはずだ。そう思って、原題を調べてみた。本書のフランスでの原題は、「Comment parler des livres que l’on n’a pas lus ?」であり、直訳すれば「読んでいない本について話すには?」である。ほぼそのまま、である。考えてみれば、これだけ皮肉のきいたタイトルを原題からの改編で題することなど誰もできないだろう。どこまでも、バイヤールの掌の上で踊らされているかのようである。

多数の本の知識を効率的に頭の中に収める方法を求めて本書を手に取ったが、その意味でいうと僕は読む本を間違えたようだ。まず、全体との位置関係によって書物を理解するという方法は、読書なしでは原理的に不可能であるということが一点。もう一点について考えるために、「読まずに理解する」ことを実践する試みとして、ある特定の書物一冊だけを「読まずに理解する」場合について考察してみよう。先ほども述べた通り、一冊の書物の背景にはそれに連なる膨大な知識群が存在する。ある書物を全体との関係性のなかで捉えることが読まない方法だとするならば、まずはその書物を取り巻く教養体系全体を身につけなければならないはずだ。だとすると、一冊の書物を読まないために、その書物の背景にある知識体系習得のために何百冊もの書物を読む羽目になる。これは例えるならば、コップ一杯分の水の成分を調べるために、その水が汲まれた湖すべてを調査するに等しい。コップ一杯中の水の成分調査を行う方がはるかに容易なことは言うまでもない。

本書で述べられた本を読まずに語る方法が、本を通読する以上に簡単であるとは一言も書かれていない。「学問に王道なし」とは数学者ユークリッドがエジプト王に語った言葉であるが、バイヤールが真に本書を通して伝えたいことはそういうことだろう。本書は、「全部読むのとかめんどいけど、情報だけ効率よく頭の中にいれたい!」という動機で本書を手に取った僕のような読者に対して、「甘えたこと言ってんじゃねぇぇぇ!」と返す叱咤激励の本なのである。一学生として、自らの態度を恥じるとともに、まことに身が引き締まる思いである。

社会学の名著30 竹内洋

僕が叩いた学問の扉は、もちろん社会学だ。この社会学という学問とはかれこれ2年以上は付き合っているのだが、いまだに全体像の把握ができていない。これまで真剣に向き合ってこなかったからということもあるが、これは社会学の構造上の問題でもあるのではないだろうか。社会学が扱う領域は幅広い。社会学の定義を極々単純化するならば「人々の相互行為の研究」ということになるであろうが、相互行為を全く行わずに生きている人など存在するはずもないため、ともすれば「なんでもあり」ということになる。社会学の全体像を考えるために、僕の大学の社会学部一回生が必修科目として受講する「社会学入門」なる講義のシラバスを覗いてみよう。

◆ 自己と他者、正常と逸脱
◆ 家族、ジェンダー、セクシュアリティ
◆ 宗教、メディア、社会運動
◆ 災害とボランティア、市民社会と公共性
◆ 個人と社会、福祉国家、グローバリゼーション
◆ 人口、階層、意識
◆ 環境、科学技術、社会的排除
◆ 政治と国家

社会学入門では、一年間を通して上記1テーマにつき3コマづつ、別々の教授がオムニバス形式で講義を展開する。なるほど、と思った。社会学の全体像を把握できないわけだ。この社会学入門のシラバスには、社会学という学問を貫くメタ知識が欠如している。別個のテーマを別々の教授が担当するオムニバス形式で、統一した枠組みを理解することなどできるわけがない。僕自身が本講義を受講していた時のことを思い返すと、教授によって語り口は全く別々であったしレジェメやスライド資料の形式などそもそも講義形式自体が頻繁に変わり、社会学を理解するどころか試験への準備すら苦労した。これでは入門するどころか、門がどこにあるのかさえわからないだろう。

社会学が扱っている領域が極めて広大であるために教養内を貫くメタ知識の習得が困難だという構造問題が、「入門」という名前の下あらゆる分野をごった煮にして提供する教育によって強化されている。僕は他大学の社会学部カリキュラムを知っているわけではないが、メタ知識不在の教育は他大学でもされていそうである。

「社会学の名著30」は、社会学を貫くメタ知識的知見習得の第一歩目として非常に参考になる本だった。本書の構成は極々シンプルで、著者が選んだ社会学の入門書30冊を大まかな解説とともに紹介するというものだ。著者自身の大学時代の体験談などとともに書物が語られるため読んでいて退屈はしないが、古典一冊がほんの15ページ程度で概説されるためテクストの圧縮率は極めて高い。全体を大まかに読み流すことも、1冊1冊について精読することもできる優れた著作である。

本書の一番の特色は、雑多な社会学という学問を著者自身がメタ知識となって統合的な解説をしている点だ。名著30冊は著者個人の好みによって選ばれているわけではもちろんない。マルクスの『共産党宣言』から存命の社会学者の著作まで、社会学成立当初から現代社会学まである程度の時系列に従って名著が紹介されている。

Ⅰ 社会学は面白い、、、?
Ⅱ 近代への道筋
Ⅲ 大衆社会・消費社会・メディア社会
Ⅳ イデオロギー・文化・社会意識
Ⅴ 行為と意味
Ⅵ 現代社会との格闘
Ⅶ 学問の社会学

本書は以上の7章から構成されているが、緩やかな時系列の下に各トピックが選定され構成されていることがわかる。「緩やかな時系列」と表現したのは、紹介されている古典が厳密に発行年順で整理されているのではなく、内容に即して柔軟に並び替えられているからだ。厳密な時系列ではなく、また無秩序なカテゴリー化でもない。両者を結合させて統一させたのは、著者自身のメタ知識によってである。広大な領域に広がる社会学的な知見を統一するためのメタ知識は、結局のところある特定個人によって語られるしかない。絶対的な基軸が内部に備わっていない社会学の教養を体系的に身につけるためには、相対価値であることを認めつつ特定個人に依拠するしかないのではないだろうか。社会学の場合であれば、依拠するべき特定個人というのはゼミの教授ということになるだろう。

最後に

情報社会という言葉が使われるようになって久しい。高度に情報化したポストモダン社会は、これまでの時代に比べて圧倒的に社会システムが複雑であり、またアクセス可能な情報は膨大だ。とても一個人が把握しきれないほどの情報が錯綜するこの社会において、「全体を見晴らす」ためのメタ知識としての学問がこれまで以上に重要になると僕は思う。「情報のシャワーを浴びろ!」とホリエモンは大学で語ったが、言われるまでもなく僕たちは情報のシャワーを浴びている。シャワーを浴びているどころか、その姿は滝行する修行僧のようですらある。必要なのはシャワーを浴びることではない。その場所から一歩下がり、水の流れを見ることだ。「全体を見晴らす」ために必要な教養は、なんでもいい。僕の場合は、それがたまたま社会学だった。それは例えば経済学でもいいし、哲学でもいい。教養を広義で捉えるならば、プログラミングでもwebデザインでも全く構わない。重要なのは、「全体を見晴らす」ための足場を持つことであるのだから。足場としての教養なき人間は、情報の奔流によってどこまでも流されていくだけである。

教養を身につける方法は様々ある。様々あるが、確固たる教養を身につけるには、その教養をすでに身につけている特定個人の下で学ぶしかないのではないだろうか。なぜなら、これまで僕は教養を絶対的なものとして強調してきたが、高度な情報化は教養体系内部の絶対軸さえも解体したからだ。比較的流動性が低かったポストモダン以前の社会では、書物に書かれた知識は一定の客観性を担保されていた。情報の流動性が低いのだから書物の知識が持つ「賞味期限」は比較的長かったであろうし、また発行される書物の数も現在よりはるかに少なく、全体から客観的な評価を下すことも容易であった。しかし、情報の絶対量が多くなり過ぎた現代においては、教養の拠り所を書物だけに求めることはもはやできない。書物の持つ情報が陳腐化する速度が恐ろしく早い上に、そもそも情報が多すぎて個別の情報を集積することで教養を身につけるというやり方は現実的ではないからだ。以上のことから、教養を身につけるために必要なことは、特定個人へ「弟子入り」すること以外に考えられない。『社会学の名著30』は竹内教授という個人が持つメタ知識によって広域な社会学に統合的な視点をもたらすことができた。今後、社会学以上に捉えどころがなくまとまった客観的知性なき情報群が次々と生まれるだろう。このような情報社会だからこそ、教養を身につけるために依拠すべきは特定個人でしかありえないのである。

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