中東が「21世紀の火薬庫」と言われるようになって久しい。中東地域では、宗教・資源・民族・経済・国際政治・国内政治など、様々な分野で問題が生じており、小さなきっかけが大きな衝突を生みかねない。それらの対立全てを包括的に語りきることは容易ではない。そこで今回僕は、イスラエル/パレスチナ関係に焦点を当てて中東情勢についてまとめてみることにした。
そもそもなぜ中東情勢について勉強しようと思ったのか。僕が中東問題に興味を抱いたのは、社会思想史における「欧米中心的進歩史観からの脱却」という文脈の中でだ。16世紀以降の世界史は、欧米的な価値観が世界中に広まるプロセスだったといっても過言ではない。19世紀の後半から20世紀にかけて、欧米中心主義的な価値観は植民地主義による他国からの搾取を肯定した上に、それに飽きたりなかった諸国は帝国同士で争い始めた。ご覧のように、その時まき散らされた戦火の種は今も世界中でくすぶり続けている。そしてこの欧米中心主義がまき散らした火種がもっとも集中している地域が、中東なのである。
欧米中心主義は手を替え品を替え、現代の社会システムの奥深くまで入り込んでいる。それは日本においても例外ではない。日本は比較的豊かで平和な国であるが、その豊かさや平和も、欧米中心主義的な様々な搾取の上に成り立っている。さらに、「搾取―被搾取」以上に問題なのは、自らの社会が欧米中心主義的システムの上に成り立っているということに対する無自覚である。日本では、特にその傾向が強いのではないだろうか。
自らの搾取に気づくことができずにいると、何か国際的な問題が起きたときに「自分たちの平和は守られるべきであり、それを脅かすものは敵である」という自己中心主義的な思考に陥ることになる。その認識を客観的に判断すると、「搾取している側が善で、搾取されている側が悪」という極めて歪な構造が見えてくる。悪意なき搾取、搾取が当たり前になりすぎて、それがなぜ悪なのかわからない。これほどの暴力があろうか。
僕たちは、豊かな国に生まれて豊かな生活を享受している。そしておそらく今後もこの社会で生きていくだろう。たとえこの生活が誰かからの搾取で成り立っている「悪」なのだとしても、だからといってこの生活を放棄することはできやしない。だけどせめて、それが誰かの搾取で成り立っているものなのかもしれないということに自覚的でありたい。悪を悪と判断できなければそもそも反省のしようがない。自分の悪を自覚することで初めて、公共的な存在たり得る可能性が芽生える。
だれもが善く生きたいと願っている。日本で学校に通う僕たちもそうだし、戦場で銃を握る若者だってそのはずだ。その二つは相容れないように見えて、実は繋がっている。そしてそれは、もしかしたら加害-被害の関係なのかもしれない。だから、知る。自分が、悪なき悪という最大の悪たる存在にならないために。
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欧米諸国による支配からイスラエルの建国まで (~1948年)
まずは、第一次大戦からイスラエル建国に至るまでの動きを大まかに見ていこう。この時期中東地域に大きな影響を与えたのは欧州諸国による帝国主義である。そして、欧州諸国の中でも、特にイギリスの動きはその後の中東を左右することになった。
第一次世界大戦に至るまでに大帝国を築き上げたイギリスの外交手腕は老練であった。大戦中、ドイツ側についたオスマン帝国の内部分裂を目論み、帝国内のアラブ人とフサイン=マクマホン協定を結んだ。当時メッカを治めていたフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされ、実際にフサインは第一次世界大戦中に5万の軍を率いて蜂起した。
その一方で、戦後の中東領土分割案としてフランスとはサイクス=ピコ協定が交わされていた。これは、現在のシリア・サウジアラビア間の国境を基準に、北側をフランスが、南側をイギリスが統治するといったものである。この時パレスチナ地方は、イギリスに帰属するエルサレム以外の土地はは国際管理地となる予定であった。
そして、ユダヤ人富豪のロスチャイルド家からの融資と引き換えに表明されたのが、パレスチナでユダヤ人国家の建設を支持するバルフォア宣言である。世界史史上はじめての国家総力戦となった第一次世界大戦を勝ち抜くためには莫大な戦費が必要だった。この莫大な戦費を賄うためにイギリスが頼った相手が、ユダヤ人のロスチャイルド家だったのである。
これら3つの秘密外交条約が、のちの時代のパレスチナ問題の発端とされているイギリスによる「三枚舌外交」だ。ただ、一般的に考えられているように、これら3つの条約のみが中東問題のすべての元凶ではない。確かにそれぞれの協定間には支配領域の曖昧な部分もあるが、文言の解釈次第ではそれぞれの協定間に矛盾がないという見方も不可能ではない。「三枚舌外交」が残したものは、領土をめぐるフランスおよびアラブ諸国の領土対立そのものではなく、秘密外交を行った統治者としてのイギリスへの不信感である。
中東地域における領土や権益を巡る対立が本格化し始めたのは、第一次世界大戦後である。これは、第一次世界大戦を通して先進諸国における石油の重要性が高まったからだ。第一次大戦では、戦闘機、戦車、戦艦、潜水艦など石油を燃料とする兵器軍が用いられ、油田の確保が軍事的に極めて重要な意味を持つようになった。また、第一次大戦と第二次大戦の戦間期には、自動車が大衆に普及し、ガソリンの需要が増大した。官民ともに石油への依存度が急激に高まったことで、欧州諸国は中東地域の油田確保のために様々な戦略を取ることになった。石油時代の到来である。
石油の産出国として中東に欧州諸国の関心が集まる中、資源獲得闘争を有利に進めたのはイギリスだった。1908年、イギリス人実業家のウィリアム・ノックス・ダーシーはイラン西南部で油田を発見し、1909年にはこれを母体にアングロ・ペルシャ石油を設立した。イギリス政府はこの会社に目をつけ、1913年に政府として資金を投入し経営に参画した。そして第一次世界大戦に勝利したことよって中東地域での覇権が決定的になり、これ以降イギリスはオスマン帝国内での石油利権獲得競争を有利に進めた。実際に、1923年にはバグダードで、1927年にはキルクークで、次々と油田を掘り当て、それらの石油輸出で莫大な利益を得るのである。
イギリスが中東地域で発掘した石油の運送ルートは主に2つあった。1つは、当時ドイツがイギリスの3C政策に対抗して敷設を進めていたバグダード鉄道である。ここでもイギリスの外交手腕は卓越していた。1914年にイギリスは、中東での石油権益をちらつかせることでバグダード鉄道への資本参加をドイツに認めさせた。バグダード鉄道の一部権益を手に入れたイギリスは、バグダード鉄道をペルシャ湾側終着点であるバスラまで延長し、ここを石油積出港として手に入れたのである。
そしてもうひとつが、パレスチナ地方のハイファー港に繋がる石油パイプラインだ。1927年にキルクークで石油が採掘され始めると、イギリス政府は即座にキルクークから直接ハイファー港まで繋がる石油パイプラインの敷設に着手した。これによってイギリスは地中海における石油燃料の安定的な補給地を実現することができた。地中海における海軍の展開能力の向上はスエズ運河から延びるインドまでの海路の安全保障を強化するものであり、パレスチナ地方のハイファー港は英帝国の要衝になったのである。
これらの一連の資源獲得競争の中で、当事者である中東諸国の権益はほとんど無視されていたと言ってよいだろう。まず石油の権益に関してだが、この時期中東諸国に石油採掘を行うための技術はなく、中東地域の石油資源はアメリカ・イギリス資本からなる石油メジャーに握られていた。後にセブン・シスターズと呼ばれることになるこれら石油メジャーは中東に眠る油田から莫大な利潤をあげた。石油の利権に関する協定は国や会社によって異なるので一概には言えないが、例えば、1950年前後にアングロ・ペルシャ社(ブリティッシュ・ペトロリアム社)がイラン油田で上げた利益のうちイランに支払われたのは年間純益の16%に過ぎなかったという。いずれにせよ、中東地域で石油が発見された1900年初頭から70年代ごろまで、石油利権は著しく欧米企業に対して有利に割り振られていた。また、石油そのもののみならず、油田の開発・運送に伴う一連の土地開発も欧州諸国の思惑を基に進められた。
第一次大戦後の1920年にオスマン帝国と締結されたセーヴル条約によってパレスチナ地域はイギリスの委任統治領となっていた。イギリス委任統治政府は土地制度に関する法制度を行い、イスラム法下では外国人に対して売買できなかった土地を売買可能なものに変えた。これは、前述した石油運送の重要拠点であるハイファー港の開発を行うためである。オスマン帝国統治下のパレスチナ地域では、小麦やオリーブを中心とした小作農が代々行われていたが、イギリス委任統治政府はこうした土地を「合法的」に接収し、第一次大戦以降増加していたユダヤ人のための入植地やパイプライン・鉄道の建設を進めたのである。地球上でもっとも古い歴史を持つと言っても過言ではないこの地域が欧米諸国によって作り変えられていく様を、アラブ人は見ていることしかできなかった。こうした欧米諸国による露骨な帝国主義的政策は、当然現地アラブ人たちの怒りを買うことになる。特に、「シオンの丘」を目指すユダヤ人たちのシオニズム運動が第二次世界大戦を通して活発になると、現地住民からの反発は激しさを増していった。
もともとパレスチナ地方のユダヤ人は人口の約1割を占める程度の少数派だった。それが1948年時点では全人口の約3割を占めるまでとなっていた。シオニズム運動の背景としては、イギリスによる植民地支配の先駆けとしてユダヤ人が利用されたこと、そしてドイツでのホロコーストなどヨーロッパ大陸で迫害を受けていたことが挙げられる。いずれにせよ、半世紀もたたないうちにパレスチナ地域の人口比は大きく変動した。現地アラブ人との対立が起こるのは必然であった。こうして二回の世界大戦を通して中東各地に蓄積されていったアラブ人の不満は、1948年のイスラエル独立宣言を契機に一挙に花開くこととなる。
イスラエル建国から現代に至るまでの中東情勢は、48年から73年までの一連の中東戦争と、中東戦争終了から2000年のオスロプロセスの崩壊までに分けて考えることができるだろう。まずは、4度にわたる中東戦争を見ていこう。
4度に渡る中東戦争 (1948年 ~ 1980年頃)
1947年に行われた国連総会で、パレスチナ分割決議が国連決議181として採択された。この決議は、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ人統治下に、43.5%の土地をアラブ人統治下に置き、エルサレムは国際管理下に置くというものである。この時点でパレスチナの全人口に占めるユダヤ人の割合は約3割であり、3割のユダヤ人に約6割の土地を与えるこの決議にアラブ諸国は当然のことながら反対していた。そして1948年5月14日、イギリス委任統治の最終日の午後にユダヤ人国家イスラエルの独立が宣言され、その翌日、近隣アラブ諸国がイスラエルに対して一斉に宣戦布告した。第一次中東戦争の始まりである。
第一次中東戦争は、ほぼ完全なイスラエル側の勝利に終わった。エジプト・シリア・レバノン・イラク・トランスヨルダンからなるアラブ諸国連合軍は兵力ではイスラエルに勝っていたが、相互不信や調整不足などによる連携の失敗から敗北した。この戦争によってイスラエルが独立国としての地位を獲得した一方、アラブ側はヨルダン川西岸地区とガザ地区をかろうじて確保するのがやっとであった。この時設定された境界線はグリーンラインと呼ばれ、現在のパレスチナ自治区域とほぼ一致する。
一般的にパレスチナ難民発生の原因は、この第一次中東戦争に求められる。イスラエル建国に伴う第一次中東戦争をはじめとした一連の戦乱により、400以上のパレスチナ人村落が破壊され、70~80万人ものパレスチナ人が難民化した。この出来事をパレスチナ人はアラビア語で大災厄を意味する「ナクバ」と呼ぶ。
第一次中東戦争の敗北はアラブ人にとって屈辱的なものであり、戦争後現体制への批判が高まった。各国が変革を迫られる中で、その後の中東史を左右することになるガマール・アブドゥル・ナセルが国王を追放してエジプト共和国を建国した。エジプトの新大統領に就任したナセルは、汎アラブ民族主義を押し出し、エジプトの近代化を進めるとともにアラブ各国と積極的に連携した。当時アルジェリアで起こっていたフランスからの独立運動の支援など、やがてナセルの動きはアラブのみならず世界各国から注目を集めることになった。エジプト国内での地位は盤石になり、また汎アラブ主義を掲げるナセルはアラブ世界の新たな指導者として英雄視されるようになっていった。そして、ナセル率いるエジプトとイスラエルの間で勃発した第二次中東戦争の結果は、ナセルがアラブ世界統一を夢見るには十分すぎるものであった。
指導者としての地盤を十分に固めたナセルはエジプトのさらなる発展のため、ナイル川にアスワンハイダム建設を計画した。このダムの建設には莫大な資金が必要であり、当初アメリカ・イギリスが融資を約束していた。しかし、ナセルはソ連など社会主義諸国との共存路線をとったため融資は撤回された。アスワンハイダム建設はエジプトにとって悲願であったため、計画を白紙撤回できなかったナセルは、当時イギリス権益下にあったスエズ運河の国有化を宣言した。運河による収入は当時年に1億ドルほどであったが、そのうちエジプトにはわずか3%あまりの手数料のみであった。イギリスにとってもスエズ運河は財政および戦略上重要な拠点であり、これに憤慨したイギリスはフランスおよびイスラエルと共にエジプトに対して軍事行動に踏み切ったのである。
スエズ戦争とも呼ばれる第二次中東戦争は、軍事的にはエジプト側の完敗だった。あとは降伏を待つのみという状態までイギリスはエジプトを追い詰めたが、しかしここで、イギリスにとって想定外の国際世論によるイギリス批判が巻き起こった。当時先進国による帝国主義的政策への批判が世界各国で高まっており、その筆頭であったアメリカがイギリスに対して待ったをかけたのである。アメリカ政府は英仏およびイスラエルに対して即時全面撤退を勧告、やむなく3国は撤退し、スエズ運河の国有化は認められた。以後、イギリスとフランスは中東地域での発言力を失っていくことになる。それに対し、アラブ諸国にとっての宿敵である英仏イスラエルからスエズ運河の権益を勝ち取ったエジプトは、アラブ民族団結の象徴となった。
この時期から、エジプトは東側の社会主義国と接近するようになっていた。1950年代後半ごろからエジプト政府は銀行や企業を国有化するなど社会主義的な政策をとっており、ソ連や東欧諸国もこれを支援していた。エジプトを中心とするアラブ民族主義はやがてソ連社会主義と結合していき、これに危機感を覚えたアメリカはイスラエルを西側資本主義の要衝と位置付けるようになった。
社会主義と結びついたアラブ民族主義が高まる中、1964年にナセルの呼びかけにより第一回アラブ首脳会議がカイロで開催された。すでに米ソ対立が明確化している中での開催であり、アラブ13か国の首脳が集まったこの会議は世界中の注目を集めた。この会議で宿敵イスラエルに対抗するために設立が決定されたのが、パレスチナ解放機構、通称PLOである。続く第二回アラブ首脳会議でPLOは正式に設立された。当時アラブの英雄であったナセル肝いりの組織ということもあり、PLOはパレスチナ人からの指示も取り付け、名実ともにパレスチナ亡命政府となった。このような動きの中で、パレスチナの人々はアラブ諸国によるイスラエルの打倒を強く期待した。
アラブ諸国の結束の強まりは、イスラエルに国家存亡の危機感を与えることになった。PLOによるゲリラ活動が活発化するなど中東地域の緊張が高まる中、ナセルは当時シナイ半島に駐留していた国連監視軍の撤退を求め、また地上軍をシナイ半島に進出させた。これは明らかにエジプトによる軍事的挑発だった。これを受け、1967年6月イスラエルはエジプトに対して奇襲攻撃を敢行した。結果はアラブ側の完敗で、シナイ半島全土、シリアのゴラン高原、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区の大部分がイスラエルに占領された。これによりイスラエルの占領地は5倍に拡大した。この戦争におけるエジプト側の被害は甚大で、戦争開始からわずか6日間のうちに死傷者は1万人以上に上り、戦力の80%が破壊されたという。
アラブ諸国の結束へと動いていた歴史は、この戦争での大きすぎる敗北によって揺れ動いた。もっとも、1950年から60年代にかけて、アラブ民族主義運動が高まる裏でイラク・シリア・イエメンなどではナセル支持派と反対派の間で内戦状態に陥っていた。これに対しエジプトは、反ナセル派打倒のためには周辺諸国に対して軍事支援を行っていたため、第三次中東戦争時にはすでに財政難に陥っていた。そして第三次中東戦争での敗北が、エジプトの弱体化を決定的にしたのである。1967年の敗北から3年後、ナセルは失意の中心臓発作で亡くなった。英雄が築いたアラブ諸国統一の夢ははかなくも崩れ去った。
第三次中東戦争は、イスラエル/パレスチナ対立のさらなる激化をもたらした。戦争の結果、パレスチナ解放の希望であったアラブ諸国が無様に敗北した上、ユダヤ人が支配する土地が5倍も広がったのだ。パレスチナ人がアラブ諸国に失望するのも無理はないだろう。パレスチナ人はこれ以後、アラブ民族主義を通じてのパレスチナ解放から、パレスチナ人自らがイスラエルとの直接対決によってパレスチナ解放を目指す自主路線へと転換していく。このパレスチナ民族主義を率いたのが、アラファト率いるファタハだった。ファタハはアラファトが設立したパレスチナ解放運動組織であり、PLO設立以前からイスラエルへのゲリラ攻撃を行っていた武装闘争色の強い組織である。ファタハがPLOに合流したのは第三次中東戦争が勃発した1967年のことで、アラブ民族主義からパレスチナ民族主義への転換を表している。PLOに参加して以降ファタハはイスラエルに対する攻勢をますます強め、1968年には1年間に916回ものテロ攻撃を行った。PLO内部においてファタハの影響力は増していき、1969年にはPLO内主要グループ6派のうち最大勢力となった。そしてファタハの長であったアラファトは、PLOの第5回パレスチナ民族評議会において議長に就任した。アラファトはパレスチナ解放のための武力闘争路線を突き進んだ。イスラエル領内でのゲリラ闘争活動に加えて、1970年の旅客機同時ハイジャック事件や1972年のミュンヘンオリンピック事件などパレスチナ人によるテロ攻撃は国境を超えて行われるようになった。過激化するPLOに対して、シリア、エジプト、ヨルダン、レバノンなどの周辺諸国はイスラエルからの報復を恐れてPLOへの支援を鈍らせていった。
1973年、エジプト・イラン両軍の奇襲攻撃から第四次中東戦争が始まった。両軍の目的は1967年の第三次中東戦争で奪われたシナイ半島およびゴラン高原の奪還だった。奇襲攻撃はユダヤ教徒にとって休日である土曜日の昼過ぎに行われ、またエジプト軍はシナイ半島に10万の兵力と1000両の戦車を投入するなど綿密な戦略と十分な備えの下での開戦であった。これに対し、さすがのイスラエルも後手に回らざるを得なかった。国家の存亡がかかっていると判断したイスラエルのメイア首相は、核オプションも辞さない構えを見せてアメリカに支援を要請した。東西冷戦はデタントの時代だったとはいえ、西側のイスラエルがもし本当に核兵器を使用すれば、アラブ諸国を支援していた東側陣営も傍観していることはできない。そして、国家の存亡が本当に危機的な状況になれば、イスラエルはおそらく核兵器を使用することをためらわなかったであろう。実際に、イスラエルは核弾頭13発の発射準備を行っていた。アメリカはイスラエルの支援要請に対して、1.1万トンの武器弾薬、F-4ファントム戦闘機を40機、スカイホーク艦上攻撃機を36機、C-130輸送機を緊急援助した。アメリカからの支援もありイスラエル軍は反撃、戦況はシナイ半島の中間地点で膠着状態となった。その後、国連安保理が停戦決議を採択し開戦から17日後に正式に停戦となった。
第四次中東戦争は、紛争が「グローバル化」する契機となった。戦争勃発から10日後に、イスラエルを一方的に支援する欧米諸国およびその同盟国である日本に対して、アラブ原油国は原油公示価格を70%引き上げることで対抗した。第一次オイルショックである。これまで戦争と経済を分けて考えていた欧米諸国にとって、紛争と紐づいた石油戦略は衝撃的であった。石油を中東諸国に依存していた欧米諸国は、これ以後泥沼の中東情勢にますます引きずりこまれ、またそれによってますます中東は混迷化することになる。
そして中東情勢がさらなる混迷状態に陥ることになったもうひとつの出来事が、1979年のエジプトとイスラエルの和平条約締結である。この条約は、エジプトがイスラエルの存在を認めることと引き換えにシナイ半島全土を返却されるというものだ。この条約に基づき1980年には両国の外交関係が正常化し、大使が交換されるようになった。この行為は、アラブ諸国に衝撃を与えた。なぜなら、エジプトは常に対イスラエルの中心的国家であり、ナセル以来アラブ民族主義をどの国よりも意識していたアラブ世界のリーダーであった。そのエジプトが、アラブ連盟を通すこともなくイスラエルとの単独和平に踏み切ったのだ。アラブ諸国にとっては、裏切りとも等しい行為であった。これを受けてアラブ連盟はエジプトから加盟資格をはく奪するとともに、経済援助を打ち切るなどの制裁措置を行った。ナセルの死後大統領となりこの和平条約を締結したサダトは、和平条約のためにイスラム復興主義過激派によって暗殺された。中東情勢はイスラエル対アラブ諸国という単純な構図ではなくなり、ますます泥沼化していった。
アラブ諸国の分裂が決定的になったのが、1980年に勃発したイラン・イラク戦争だ。この戦争は、イランでのイスラム革命が自国に飛び火することを恐れたイラクのフセイン大統領によって始められた。中東地域における大国2つの戦争に、どちら側を支援するかでアラブ諸国はわれた。イスラム革命が世界に広がることを恐れた欧米諸国がイラクを支援する一方、イスラム教アラウィ派出身のシリアのアサド大統領や反米主義を掲げるリビアのカダフィ大佐などがイランを支援した。また、イラン・イラク戦争はイスラエル/パレスチナ対立を激化させる伏線でもある。
大戦終結から冷戦終結までの期間は、4度にわたる中東戦争が行われていた時期とほぼ一致しており、中東地域におけるおおまかな対立軸も、イスラエル・西側資本主義諸国とアラブ諸国・東側社会主義という構図である程度理解することが可能だった。しかし、この時期を境に中東の戦乱は分散し、複雑化していくのである。
2つの戦後とオスロ和平プロセス (1980年頃 ~ 2000年頃)
4度にわたる中東戦争以降のアラブ世界は、湾岸戦争の終結と冷戦の終結という「2つの戦後」から語り始めるのが適切だろう。まず、1989年のマルタ会談による米ソ冷戦の終結は、中東地域における西側資本主義の前線基地であったイスラエルの戦略的重要性を大幅に低下させた。これまでの4度の中東戦争やヨルダンやレバノンなどとの紛争において欧州諸国はイスラエルを常に支援してきた。それはひとえに、アラブ民族主義と社会主義が結びつくことで、中東地域におけるソ連の影響力が拡大することを阻止するためである。冷戦の終結による米ソ対立の消滅は、イスラエルへの支援体制の見直しを意味していた。また、自身の立ち位置の見直しを迫られたのはイスラエルのみならず、アラブ諸国およびPLOの側にとっても同じであった。暗に明にソ連や東側諸国からの支援を受けていたPLOも、活動の見直しをせざるをえなくなった。
そして、イスラエル/パレスチナ問題に新たな火種を持ち込んだのが、湾岸戦争だ。湾岸戦争の原因は、イラン・イラク戦争の戦費の支払いがのしかかったことで、イラクの経済状況が急速に悪化したことだ。そこで、イラクは石油産業によって栄える隣国クウェートに侵攻したのである。当然、各国はイラクを非難した。国連安保理もイラク軍の即時撤退を要求し、多国籍軍の編成も進められた。誰がどう見てもイラクによるクウェート侵攻は大義なき侵略行為であった。しかし、世界各国による非難に対してイラクのフセイン大統領が行った主張が、事態を複雑化させた。なんとフセイン大統領は、「クウェートはもともとイラクの一部であり、クウェート占領が非難されるのであれば、イスラエル占領も非難されるべきである」というイスラエル/パレスチナ問題と絡めた、いわゆる「リンケージ論」を展開させたのだ。イスラエルをめぐって4度もの中東戦争を戦ったアラブ諸国がこの主張に反論することは難しい。それはPLOにとってはなおさらであり、自らの存在理由からしてイラク支持を表明せざるを得なかった。

石を投げる少年 photo from wikipedia
この時期イスラエルでは、パレスチナ民衆による大規模蜂起活動が起こっており、湾岸戦争はイスラエルとパレスチナの対立をさらに激化させた。蜂起活動こそ、国際世論に大きな波紋を生んだ第一次インティファーダである。インティファーダは「石の蜂起」と呼ばれることもあるが、それは近代兵器で武装したイスラエル軍に対して投石で対抗するパレスチナ人の姿が衝撃的だったからだ。冷戦終結の直後に起こった湾岸戦争で世界の注目が中東に集まる中、石を投げる住民に対して銃撃で対応するイスラエル軍の様子も全世界に報道されることになった。誰がどう見ても非人道的なイスラエル軍に非難が集まり、イスラエルは国際世論の中で苦しい立場となった。
冷静終結と湾岸戦争終結という2つの戦後がイスラエル/パレスチナにもたらしたものは、イスラエルとパレスチナ双方の弱体化である。PLOは冷戦終結によってソ連からの支援を失うとともに、湾岸戦争でイラクを支持したことで湾岸諸国からの支援も失っていた。一方のイスラエルも、欧州諸国からの支援体制が揺らぐなか、インティファーダによって国際世論からも見放されたのである。こうした状況の中で、イスラエルとパレスチナは両者ともに新たな関係性を模索する必要に迫られていく。
話が前後するが、ここでいったんパレスチナの人々とPLOの状況について整理しよう。1948年のイスラエル独立宣言以来、難民化したパレスチナの人々の多くは、イスラエル内のヨルダン川西岸地区およびガザ地区、あるいは周辺諸国の難民キャンプでの生活を余儀なくされていた。難民キャンプでの生活が厳しいものであることは言うまでもないが、それはイスラエル国内に残った人々にしても同じである。苦しい状況の中で、イスラエルへの憎しみが武力闘争の形をとるのは必然であった。一方的に土地を追われ、劣悪な生活環境の中で過ごさざるを得ない人々が、故郷への帰還を願って、武力によるパレスチナの解放を目指す活動、それがパレスチナ解放運動である。パレスチナ解放を掲げる武装集団はいくつもあり、それらを束ねる存在が1964年のアラブ連盟において設立されたPLOなのである。つまり、PLOとは様々な集団の寄り合い所帯であり、PLO内で最大派閥の長が全体の指揮をとるという構造になっている。そして現在に至るまでPLO内で最大派閥を構成しているのが、ヤーセル・アラファトが設立したファタハであり、PLOが正式にパレスチナ自治政府と認められるようになるとアラファトはその初代大統領を務めた。
PLOは、設立された当初においてはアラブ民族主義と結びついていた。つまり、パレスチナ解放はアラブ諸国が団結してイスラエルを打倒することと同義であった。しかし、アラブ民族主義と結びついたパレスチナ解放という指針は、1967年に勃発した第三次中東戦争によって方向転換を余儀なくされた。この戦争では、わずか6日間でシナイ半島、ゴラン高原、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区が占領され、イスラエルはその領土を5倍に拡大した。続く第4次中東戦争では、アラブの盟主であったエジプトがこれらの占領地と引き換えにイスラエル国家の存在を認める単独和平を結んだことで、アラブ諸国の一体化はもはや現実的ではなくなった。パレスチナの人々はアラブ諸国に対する失望を募らせていった。
こうした状況下において、「パレスチナ人自身による武装闘争がパレスチナ解放への唯一の道である」という武力闘争路線が高まっていった。イスラエルとの関係は悪化していき、1970年のヨルダン内戦、1975年以降のレバノン内戦など隣国をも巻き込みながら武力衝突を繰り返した。また武力闘争を行う一方で、ファタハをはじめとするゲリラ組織は難問キャンプでのインフラ整備や、医療、福祉、教育、生活必需品の提供などの活動も積極的に行っていた。パレスチナの人々にとっては、ファタハなどゲリラ組織は私たちがイメージするようなテロ集団などではなく、正義のために戦う存在なのである。
ヨルダン川西岸地区とガザ地区は、第三次中東戦争以降イスラエルの占領地となっていた。イスラエル軍が両地域を統治していたが、物価の上昇や土地の接収、イスラム教への冒涜行為などが蔓延。イスラエル軍によるパレスチナの人々への差別的な対応は日常的に行われていた。パレスチナの人々の間には不満が溜まる一方だった。そして、積もりに積もったイスラエルに対する不満が爆発した出来事が、「インティファーダ」なのである。きっかけは、1987年12月にガザ地区で起こった交通事故だったという。イスラエル国防軍のトラックが板に衝突する事故で4人のパレスチナ人が死亡した。この事故の犠牲者の葬儀が暴動と化し、暴動がガザ地区からヨルダン川西岸地区へも広がった。その後5年間続く大衆蜂起が始まったのである。インティファーダでは、これまでのゲリラ組織による抵抗活動とは異なり、女性や小さな子供までもが蜂起に参加した。座り込みやデモ行進はもちろん、ボイコット、不買運動など、イスラエル占領下で培ったすべての抗議手段が総動員された。中でも世界の注目を集めたのが、戦車や軍用ジープに向かって石を投げるパレスチナの人々の姿である。これは、イスラエルとパレスチナの関係を端的に世界に伝えるものであり、投石という抗議手段がシンボル的な役割を果たしたことから、インティファーダは別名「石の蜂起」とも呼ばれるのである。そして、インティファーダや湾岸戦争を通してイスラエル/パレスチナ問題に国際的な関心が集まったことから、PLOは大きな決断を下した。1988年にアラファトが発表した、パレスチナ独立宣言である。この宣言は大きな反響を呼び、アラファトは国連総会に招待され演説を行い、パレスチナ独立宣言の承認が採択された。
このように、冷戦と湾岸戦争を経てイスラエルとパレスチナの関係は大きく変わった。特に、インティファーダによる国際的なイスラエル非難の高まりは、1992年の議会選挙で対パレスチナ和平路線をとるイツハック・ラビンが右派強硬派を退けるきっかけとなった。またパレスチナ側でも、1988年のパレスチナ独立宣言以降、アラファト議長は外交によるパレスチナ解放を目指す穏健路線をとっていた。イスラエル独立から40年を経て、両国は和平に向けて動き出していたのである。そして始まるのが、イスラエルとパレスチナによる和平交渉、オスロ和平プロセスである。

握手するラビン首相とアラファト議長。中央はクリントン大統領 photo from wikipedia
両国の指導者が穏健路線だったとはいえ、イスラエルとパレスチナはどちらも和平派と反和平派で揺れていたため、ラビンとアラファトはマスコミに情報がリークされないよう細心の注意を払いながら議論を重ねていった。そしてついに、1993年8月18日未明、アラファトとイスラエルのペレス外相は夜通しの電話会談の末、和平交渉を決着させた。イスラエル建国以来武力衝突が絶えなかったパレスチナ・イスラエルに歴史的な和平合意がなされたのである。電話を終えたアラファトは、その場で喜びのあまり声を上げて泣いたという。ノルウェーの首都オスロで交渉が重ねられたことから「オスロ合意」と略称されるこの和平合意を、世界は熱烈に歓迎した。アラファトとラビンは、1994年にともにノーベル平和賞を受賞した。
第二次世界大戦以来続くイスラエル/パレスチナ間の紛争行為は、この合意から解決に向かうはずだった。しかし、現実はそううまくはいかなかった。
正式に締結されたオスロ合意の主な内容は、PLOをパレスチナの自治政府としてイスラエルは正式に認め、またPLOもイスラエルを国家として認めること、そしてイスラエル軍はガザ地区およびヨルダン川西岸地区から暫定的に撤退し5年間の自治を認めること、の2点だ。確かにオスロ合意はイスラエルとパレスチナは両国の存在を認め、暫定とはいえパレスチナに正式な国土を認めたという点で画期的である。しかし、この合意はイスラエル/パレスチナ対立に関わる根本的な問題を決して解決しようとはしていなかった。
オスロ合意とは、つまるところイスラエル領内のガザ地区とヨルダン川西岸地区をパレスチナの国土とする「ミニ・パレスチナ国家」による二国家解決案である。これに対してパレスチナ側からは、2つの批判がなされた。第1は、イスラエルとパレスチナの二国家解決案そのものに反対する立場である。これは、イスラエル/パレスチナ問題の根源を1948年以前のヨーロッパによる植民地主義にあると捉え、ユダヤ人によるパレスチナ人の追放という問題に対して批判を行うべきだという主張である。この議論は、パレスチナ地域においてアラブ人・ユダヤ人に関わらず全住民に平等な権利を与えるべきだとする一国家解決案と紐づいている。そして第2の批判は、オスロ合意は二国家解決案としてさえ不十分であるとする主張である。オスロ合意と一連の和平プロセスの中で、確かにパレスチナ自治区が認められているが、それはガザ地区とヨルダン川西岸地区全域を指すものではない。自治区はA地区・B地区・C地区の3区画に分けられ、B地区では治安を、C地区は治安と民政をイスラエル側が管轄することになっている。つまり、パレスチナ側が全行政権を持つことができるのはA地区のみであり、これは全占領地のうちわずか18%でしかない。さらに、自治区内にはユダヤ人入植地が散在しており、パレスチナ人の生活空間を分断してしまっている。40年間続けられた抵抗運動の成果としては、この合意内容はあまりにも不十分だとパレスチナの人々の目には写っただろう。イスラエルの側でも、神から与えられた約束の地イスラエルの土地を異教徒に分割するラビン首相に対して「神に対する裏切り者」という批判があった。この批判は決して特別なものではなく、多くの人々が実際にそう考えていた。

赤色塗りつぶし部分がA地区及びB地区 image from wikipedia
パレスチナ側でこのオスロ和平プロセスへの反対運動の中心となったのは、第一次インティファーダ期に民衆の間で支持を広げたハマスである。ハマスはオスロ合意のみならず、アラファト率いるPLOそのものへの批判も繰り広げ、パレスチナの人々の支持を集めた。というのも、第一次インティファーダが行われていた時期にPLO指導部はチュニジアに逃れており、現場レベルでの支援活動が滞っていた。それに加え、PLO設立から20年以上常にファタハが最大派閥だったことから組織は官僚化しており、民衆に寄り添う相互扶助組織としてのファタハの性格は失われていたのである。ハマスはインティファーダ開始とほぼ同時期にムスリム同胞団のパレスチナ支部が母体となって設立され、ガザ地区を拠点にイスラエルへの武力闘争を行うとともに、貧困層への支援活動やインフラの整備などにも積極的に取り組んだ。くしくもその活動内容や支持基盤を広げた背景は、かつてのファタハが経験した状況と酷似しており、パレスチナの人々は官僚化したPLO組織に距離感を感じる一方、民衆を率いて戦い続けるハマスに共感を示したのである。
イスラエルでは、和平反対運動はより直接的な形をとった。1995年11月4日、テルアビブで開催された平和集会に出席していたラビン首相が、ユダヤ教原理主義強硬派の学生によって至近距離から銃撃されたのである。意識不明の状態で病院に搬送され、その日のうちに死亡した。これによって和平は停滞、神は本当にいるのかと、平和を望む多くの人々の心に去来したに違いない。過激派による首相の暗殺事件に対して非難の声が上がる一方で、暗殺を実行した青年を英雄視する見方も広まった。そうした中、ラビン首相暗殺後に行われたイスラエルの議会選挙では、わずか1%の差で和平反対派のリクード党が政権を握った。
2000年9月28日、リクード党シャロン首相がエルサレム旧市街にあるイスラム教モスクに足を踏み入れ、翌9月29日、これに対する抗議運動を行っていたパレスチナ人に対してイスラエル警察は実弾を発砲、7人が死亡する事件が起こった。イスラエル/パレスチナの対立は再び過激化していった。これが、第二次インティファーダである。この時も、ガザ地区を拠点にしていたハマスが抗議運動を率いた。テロ攻撃や暴動などが巻き起こる中、リクード政権は「今後一切PLOのアラファトを交渉相手と見なさない」と発表し、オスロ和平プロセスは崩壊した。アラファトはイスラエル側からテロ行為の根源と見なされ、第二次インティファーダを境にイスラエル軍によってほぼ軟禁状態にされた。2004年、和平プロセス失敗の失意の中、アラファトはこの世を去った。
オスロ和平プロセスは、結果的に、両者の対立をより深いものにし、さらにはそれぞれの国内をも分裂させたのである。根本的な解決策が見えないまま、イスラエル/パレスチナは現在に至るまで衝突を繰り返している。
第二次インティファーダから現代まで (2000年 ~ )
第一次インティファーダで形成され、第二次インティファーダで支持を確固たるものにしたハマスは、2006年のパレスチナ民族評議会選挙でファタハを破った。これに従いハマスのイスマーイール・ハニーヤが内閣を組織したが、イスラエルと欧米諸国はハマスをテロ集団として認定し、これを認めなかった。もちろんパレスチナの人々はこれに反発したが、政治および財政的基盤をイスラエルや欧米諸国に依存している以上、どうすることもできなかった。アラファトの死後ファタハを率いていたマフムド・アッバースは、ヨルダン川西岸地区で独自内閣を発足させた。しかし、アッバースが組織した内閣はハマスの本拠地であるガザ地区まで影響力を及ぼすことはできず、2007年以降ヨルダン川西岸地区をファタハが統治する一方、ガザ地区をハマスが統治するという二重統治体制が生まれた。
パレスチナが政治的に混乱する中、イスラエルは「テロ組織ハマス」が支配するガザ地区を完全封鎖し、住民は地区外に出ることができないようになっており、食料や医療品、電気など各種燃料の配送も滞っている。さらに2008年から2009年には、ハマスによるテロ攻撃を理由に完全に封鎖されたガザ地区へ向けて空爆を行った。ガザ紛争と通称されるこの戦争は、戦争というよりも一方的な虐殺に近かった。パレスチナ側では1300人が亡くなったが、その大半は非武装市民であり、また死傷者の3分の1は未成年者であったという。対してイスラエル側の死傷者は13人であった。イスラエル側でも死傷者・負傷者が出ている以上、その善悪を語ることはできないが、だとしても、被害の非対称性が当時のガザ地区の状況を物語っているだろう。

分離壁 photo from wikipedia
ガザ地区が閉鎖される一方、ヨルダン川西岸地区でも「分離壁」の建設が進められていた。2002年に「テロリストの攻撃から守る」ために建設が始められたこの壁は、全長約700kmの計画のうち約450kmが完成している。2004年に国際司法裁判所は分離壁の建設を違法だとする勧告を出しているが、イスラエルはこれを無視し壁の建設を続けている。
パレスチナ問題は、2018年10月現在においてもまったく解決のめどがたっていない。それどころか、昨年12月にアメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と承認し、今年5月にはアメリカ大使館がエルサレムに移転された。当然パレスチナ人はこれに反発し、対立はむしろ激しさを増している。ガザ地区では、今年に入ってからも空爆や民間人へのイスラエル軍による発砲事件が相次いでいる。
平和は可能であるか
イスラエル/パレスチナ問題を考える際に、敵/味方あるいは善/悪のような対立軸を作ることは、問題を何も解決させないと僕は考える。歴史を語る以上、ある程度の物語性や主観性が入ることは免れない。今回の僕がまとめたイスラエル/パレスチナ史を読むと、イスラエルの側になにか非があるように感じられるかもしれない。イスラエルとパレスチナには、経済面でも軍事面でも大きな開きがある。どう客観的に判断しても、国力の強いイスラエルがパレスチナに対して差別的な扱いをしているように見える。実際そういう側面はあるだろうし、僕にもそう見える。しかし、だからといってイスラエルだけを非難するべきではない。
ユダヤ人は、おそらくこの地球で最も歴史的民族と言ってよいだろう。ユダヤ人が現在のイスラエル地方に住み始めたのは、遠く紀元前1600年ごろだと言われている。使徒アブラハムがメソポタミアのウルから民族を率いてこの地方に移住したとの記述があるのは、旧約聖書の中である。しかし、その歴史は必ずしも平和なものであったとは言えない。古くはエジプト新王朝による奴隷化から、近年のナチスドイツによるホロコーストまで、世界史の中でユダヤ人は何度も迫害を受けてきた。3000年以上にわたって肌身離さず持ち続けた旧約聖書には、「カナン」が神から与えられた土地としてはっきりと書かれている。にもかかわらず、その地で自分たちの国家を持つことができた期間は歴史の中であまりに短い。受難の歴史の中で、たとえ欧米諸国のイデオロギーであるとわかったうえでも、カナンの地にユダヤ人国家を建国することは民族の悲願であった。日本人である僕にはとても想像できないが、強硬策を取ることによってどれだけ世界から非難を受けようと、それでも自分たちの国家を維持したいという思いは切実なものだろう。先ほどイスラエル/パレスチナ関係の非対称性について触れたが、ユダヤ人/アラブ人という構図で考えてみたらどうだろう。途端に、力関係は逆転する。その世界史を振り返り、圧倒的に多数のアラブ民族に取り囲まれるユダヤ人に思いを馳せた時、彼らが「壁」を築いた気持ちを少しだけ理解することができるのではないだろうか。
イスラエル/パレスチナ問題を対立軸で捉えることは、解決策から最も遠ざかる選択である。イスラエルとパレスチナを対立軸で捉えた瞬間に、無視することができない歪なパワーバランスが生まれ、やがてそれはまた紛争に至る原因となる。それは歴史が証明している。悲劇と憎しみ渦巻く中東地域の紛争問題に、果たして「解決」なるものが存在するのかどうか僕にはわからない。歴史上、この地域に対立がなかった時期などほとんどないからだ。でもだからといって平和が不可能であるはずがない。それは、民族同士の分離や、一方による他方の駆逐などでは絶対に実現しない。たとえそれがどれだけ困難であったとしても、民族としてのアイデンティティを維持したまま可能な平和共存路線の模索しかないのだと僕は思う。
参考文献)
福富満久(2018) 『戦火の欧州・中東史 収奪と報復の200年』 東洋経済新報社
松尾昌樹・岡野内正・吉川卓郎編(2016) 『中東の新たな秩序』 ミネルヴァ書房
臼杵陽・鈴木啓之編(2016) 『パレスチナを知るための60章』 明石書店
大橋康一(2018)『実感する世界史 現代史』 ベレ出版