「哲学とは何か」、哲学を学ぶに当たってぶつかる第一の哲学的問いである。僕は哲学者ではないし、ましてや哲学を専門に学んでいるわけでもない。その上、哲学を本格的に勉強したのは今回が初めてである。そのため僕が「哲学とは何か」という問いに答えることなどそもそも僭越至極であるわけだが、それでも様々な文献に触れて思ったことをここにプロローグとして書き留めておきたい。
僕にとっての「哲学」とは何か。勉強しながらずっと考えていたが、僕にとっての「哲学」は、結局社会学を学ぶために必要な予備学でしかなかった。つまり、哲学そのものは正直どうだっていいのだ。必要だから勉強した、それ以上でも以下でもない。学んでみてわかったが、正直僕に哲学はピンとこない。もちろん、人々が平均的に持つ以上の興味はあるが、それに傾倒するほどではない。身も蓋もない言い方だが、存在がどうであるとか実体がどうであるとか、仮にそれを突き止めたとして、僕自身の生に何か関係あるのだろうか。あるはずもなかろう。ソクラテスとプラトンに怒られそうだ。
しかし、ある意味で、哲学に対する態度はこれでよいのだ。僕のように、「哲学そのものには興味のない哲学」があったとしても何も問題はない。なぜなら、哲学とは、究極的に個人的・自己目的的なものであるからである。ある人にとって重大な問題が、必ずしも全ての人に取って重大だとは限らない。それと同じで、どんな哲学もそれぞれある人にとっては有意味であり、ある人にとっては無意味である。「問う」ことから哲学は始まるが、逆に言うとそれ以外は何も定まっていない。結局のところ、自分にとっての問いとは何か、ということに哲学の意味は収束するのである。それに比べれば、「哲学とは何か」などという定義問題などさほど重要ではない。プラトンから引用するならば、「始めは全体の半ばである」のだ。
とはいえ、少しでも哲学に興味を持つ人のために、その手引きとして「哲学」の語源を紹介することは無駄にはならないだろう。さて、「哲学」という日本語はそれほど古い歴史をもつものではない。西洋の学問の一分科である「philosophy」が日本に輸入されたのは江戸時代末期のことであり、今から約200年ほど前のことだ。江戸幕府の下で洋学を研究していた西周と津田真道は、「philosophy」を「希哲学」、または「希賢学」と翻訳したという。これはすなわち「賢哲であることを希う学問」という意味である。後にこの語が簡略化され、現代では「哲学」という語が使われている。それでは、「philosophy」という語の起源はどこにあるのだろうか。もちろんそれは、哲学が生まれた場所、すなわち古代ギリシアにある。ギリシア語における「philosophy」改め「philosophia」は、「philo(愛するものの意)」と「sophia(知恵の意)」という二つの部分からなる。すなわち「philosophia」とは、「知恵の愛求」という意味である。古代ギリシア人が自らの理性的活動に「知恵の愛求」という語を当てはめた時、学問の歴史は始まった。その姿勢は現代にまで受け継がれ、今なお僕たちはあくなき知識の探求を続けているのである。
今回、人類の知の源流ともいえる古代ギリシア哲学を、初期ギリシア哲学からアリストテレス哲学まで概説した。基本的に本記事は僕自身の学びのために執筆しているものであるが、これを読む人が少しでも古代ギリシア思想のエッセンスを得ることができたなら、これ以上嬉しいことはない。
Contents
初期ギリシア哲学
ギリシア哲学というと、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの3人があたかもその全てを造りあげたかのように取り上げられることがある。確かに3人の巨人が後世に与えた影響は絶大と言わざるを得ないが、彼らとてその時代において独立に存在していたわけではない。ソクラテスが「哲学」を始める以前にも、ギリシア世界には巨大な知的脈動が存在していた。イオニアの自然学者たち、イタリアの数学者たち、バルカン半島のソフィストたちがそれである。哲学の創始者と評されるソクラテスも、当時のアテナイでは数いる知識人の内の1人でしかなかったのかもしれない。なれば、ソクラテスらの哲学を紐解く前に、彼らを取り巻く初期ギリシア哲学を概観することは無駄ではないだろう。
初期ギリシア哲学者たちの著作や資料は、残念ながら現代にはほとんど伝わっていない。彼らの思想を今に伝えるものは、彼らの著作のわずかばかりの断片と、かろうじて現代まで伝わっている哲学書の内にある記述のみである。このため、初期ギリシア哲学の正確な位置づけは困難であり、その研究は後世の哲学史家の解釈によるところが大きい。この記事では、初期ギリシア哲学を概説するに当って「イオニア自然学派」と「イタリア論理学派」という2つの区分を便宜的に導入するが、この区分は決して絶対的なものでないことを留意いただきたい。
イオニア自然学派
広義の意味での「哲学」が芽生えたのは、現在のトルコ西部にあたるイオニア地方だった。この地域に建設されたギリシア植民市ミレトスは、ギリシア世界にとって当時の先進国であった東方諸国との貿易の玄関口であった。東西交易の中継地点という地理的条件はこの都市の経済的繁栄を支え、さらには文化・芸術の交錯をももたらした。また、経済の発展と文化の交錯は、母国で支配的であった伝統的宗教観からの逸脱も許容した。ちょうど後の時代のイタリア半島でルネサンスが巻き起こるように、イオニア地方にはこの時期新たな思想が生まれる土壌が整っていたのである。
イオニア地方の人々が関心を抱いたのは、自分たちが経験しているこの世界はいったい何から構成されているのかという問題だった。彼らは当初自身の身の回りの事象、例えば地水火風などを研究することによってこの宇宙の在り方を解き明かそうとした。現代の枠組みで言うところの「自然科学」の誕生である。自然本性の追求という学問の在り方は、古い時代より伝わる宗教的な世界観も大きく関係していたと考えられる。
というのも、このころ地中海世界を宗教的に支配していた神々はオリュンポス十二神であり、彼らは自然に人格を与えた自然神だったのである。例えば、天候をつかさどる主神ゼウス、海洋をつかさどるポセイドン、大地をつかさどるデメテル、といった具合に、自然界を象徴する神々が宇宙の秩序を維持していると語られていた。つまり、神と世界と自然は繋がっており、自然界の事物を研究することがすなわち宇宙の原理を解明することだと考えられたのである。神々の世界に彩られていた自然科学は、常に科学と宗教のはざまに位置し、それゆえ彼らの研究は詩的な性格を帯びるのである。
ミレトス派に代表される哲学者として、万物の元のものを「水」と言ったタレス、「無限なもの」と言ったアナクシマンドロス、「空気」であると言ったアナクシメネスの3人が数えられる。この3人の中からタレスを、そしてそれに加えてイオニア地方の学者であったヘラクレイトスとデモクリトスについて紹介する。
タレス (前625年頃 ~ 前547年頃)
タレスは前7世紀から前6世紀にかけて活動した思想家で、イオニア地方のミレトスに生まれた。初期ギリシア自然学がミレトス学派と呼称されるのは、彼によるところが大きい。タレスは万物の元のものは「水」であると考えた。万物は水に由来し水に還るといった考えは、当時の人々の世界観とも合致する。例えば、バビロニアの洪水伝説やノアの箱舟伝説、またギリシア人の起源を象徴するとも言われる『エウロペの誘拐』神話なども、全て水に由来するものだ。このような世界解釈を前提としたうえで、タレスは多様な現実存在を支える一なる自然本性として水を措定したのであろう。
西洋哲学においてタレスは最初の哲学者とされているが、これはアリストテレスが「タレスがそういった哲学を始めた人であり、水が原理であると言った」と報告しているからである。アリストテレスがタレスを哲学の始祖たる存在としたのは、「存在」についての説明に初めて論理的根拠を求めた人だったからである。
科学・哲学的な知識の蓄積自体はタレス以前にも存在していた。例えば、エジプトではタレスが誕生する約3000年以上前からナイル川氾濫の周期性の発見や天体観測による日付の設定が行われていたし、世界存在の解釈という点では、伝統的宗教がこれにあたるだろう。しかし、これらの発見や知識は現在使われているような意味での「学的知識」ではない。なぜなら、このような発見はあくまで観測可能な諸現象から法則性を導き出しているにすぎず、なぜその現象が起こっているのかについての解答を含んではいないからだ。
タレス以前の時代、「なぜナイル川は氾濫するのか」「なぜ世界はこうあるのか」といった本質的な部分に迫る類の問いに対しては、神話的な解釈が試みられるにすぎなかった。世界の根拠づけは人間の叡智が及ばぬ神話の領域にあるとされ、それ以上の説明は求められなかったのである。タレスの天才は、神話の領域にあった世界の根拠を人間理性のうちに引き戻したこと、いわば「知識を天上界から地上界への奪還」という点にある。初期の思想家たちも宗教的な世界観に依拠していた部分があるとはいえ、世界の存在にまつわる問いを人間理性の内に引き戻したという功績は計り知れない。宗教的価値観との関わりが保たれつつも、現実存在の根拠づけを現実世界に求めたタレスの姿勢は、後のギリシア哲学に継承された。人類の知の歴史は、まさにここから始まったのである。
キケロ (『神々の本性について』Ⅰ10,25)
ヘラクレイトス (前540年頃 ~ 前480年頃)
ヘラクレイトスは、紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけてエフェソスで活動した人である。彼は王族の出であったが、王位を弟に譲って自らはアルテミス神殿に隠棲したと言われている。イオニアの自然哲学とともに、後に紹介するピタゴラスの理性主義も取り入れたため、厳密にはミレトス学派ではないが、ここではイオニアの人として取り上げる。
ヘラクレイトスは、その哲学に「ロゴス(logos)」を取り入れた人である。「ロゴス」とは「言葉」のことであり、「言葉」は世界の存在事物がどのようにあるかを説明し、表現するものである。世界は「言葉」によって説明されるものであるため、「ロゴス」は世界のありかたを決定づけている秩序・規則・法則である。したがって、「ロゴス」とは世界の理法なのである。このような言葉による世界事象の把握という試みは、ピタゴラスらの合理主義に見られる特徴であり、彼らから何らかの影響を受けていたものと思われる。
言葉による世界の把握を説いた一方、ヘラクレイトスは「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である。」と述べている。これは、生成・変化する動的な世界のあり方を、火に象徴させて捉えたものだと考えられる。燃焼は、木材や油など何らかのエネルギーを熱や光に変換する現象である。すべてのものを焼き尽くすがそれによってエネルギーを生成し、消え行くかと思えばまた燃え上がる、生成変化が止むことがない不断の運動状態をヘラクレイトスは揺れる炎の中に見た。ここから、プラトンが言うところの「万物は流転する」という世界観を導き出したのであろう。
以上のことから、ヘラクレイトスは、世界が絶えず生成変化する動的なものである一方、それらの全体を統一する秩序としてロゴスが存在すると述べたと考えられる。火を生成変化の象徴と捉えていたという点において、タレスが導いた「始原としての水」と直接対比できる概念ではないことに注意する必要がある。
プラトン (『クラテュロス』402 A)
アリストテレス (『形而上学』第18章7)
デモクリトス (前460年頃 ~ 前370年頃)
世界はそれ以上分割できない「不可分なもの(原子)」と、それらが運動する「空虚」から成ると説明したデモクリトスの哲学は、イオニア学派ともイタリア学派とも異なる単独のものとして扱われることが多いが、現代科学との近似性からイオニア自然学に連なるものとして今回は取り上げる。原子論は、レウキッポスを創始者とし、その弟子デモクリトスを完成者とみなすのが一般的な哲学史の見解である。レウキッポスとデモクリトスはソクラテス・プラトンに似た関係にあり、二人の思想は一括して「原子論」として取り扱われることが多い。
世界のあらゆる存在、あらゆる現象を、多数の微小な原子による結合と分離から説明できるとし、また自然事象だけでなく人間の魂も原子によって説明可能であるという説が原子論である。原子とは、ただ形と大きさによってのみ異なる無数に存在する不可分な微粒子のことである。質的に同一な原子の形態と配列と位置によって世界は構成されており、事象に対してこれ以外のいかなる要因も認めなかった。全ての事象が原子の運動によって規定されているという説は、現在で言うところの唯物論を規定にした決定論的な立場である。彼は自然科学的な方法ではなく、「あるものはある、ないものはない」というエレア派の思弁から出発して原子論に至った。このためデモクリトスを自然学者として単純に位置づけることは困難なのである。
デモクリトスの「原子」が自然学的原理ではなく、数学的形而上学的原理であったとはいえ、世界と人間のすべて包括的に説明しようとしたデモクリトスの原子論によってギリシア自然哲学は完成を見たとも言われる。
アリストテレス (『形而上学』Z13. 1039a9)
アリストテレス (『動物発生論』E8. 789b2)
イタリア論理学派
イタリアに論理哲学が根付いたのは、ピタゴラスによるところが大きい。ピタゴラスは元々イオニア地方のサモス出身であるが、のちに南イタリアのクロトンに移住し、ピタゴラス派の集団を形成した。これがイタリアの論理哲学の始まりである。
ピタゴラスの流れをくむ思想とイオニア地方で伝統された思想は、思考の様式が根本的に異なっている。先に述べたタレスらイオニアの自然哲学者たちが、何らかの自然的事象や物質に「世界の元のもの」を求めた、あるいは表現したのに対して、ピタゴラスが万物の始原であると考えたのは「数」であった。「数」とは、その意味を極限まで捨象するならば、人間が便宜的に決定した物事の量と順序を表す「形式」でしかない。私たちが経験可能な世界に、数字という概念は元々存在しないのである。自然界には存在しない人間理性の産物を万物の始原とするため、ピタゴラス派に始める思想の流派は「理性主義」あるいは「論理主義」と呼ばれるのである。。
ピタゴラス派の論理主義はやがてパルメニデスが創始するエレア派哲学に引き継がれ、のちにプラトンの思想にも大きな影響を与えることになる。ここでは、ピタゴラスおよびパルメニデスについて取り上げる。
ピタゴラス (前582年 ~ 前496年)
ピタゴラスは前6世紀ごろにサモスで生まれ、のちにイタリアでピタゴラス学派を創始したことは先に述べた。イオニア地方を去ってからイタリアに腰を据えるまでの間にエジプト・メソポタミア・インドなどを遍歴したと言われているが、それを示す歴史的資料は残っていない。いずれにせよ、各地を旅する中で数学的知識を身につけたことは確かだと言える。イタリアに移り住んでからは、ピタゴラスは自身の思想を半ば教義化し、宗教組織と研究組織が融合した秘密結社めいた集団を作り上げたらしい。このピタゴラス教団は神秘主義的・秘密主義的性格が強く、理性的な学問研究によって魂が浄化され身体から解放されるという心身二元論を信奉し、メンバーは一定の戒律に従って生活していた。このような特殊な閉鎖的集団であったためか、教団に対する反対運動が勃発し、ピタゴラスは反対派によって殺された。彼の死後教団は徐々に解体され、その過程でピタゴラス派の思想は各地に広まったと考えられる。
ピタゴラス派の思想原理は、総括するならば「数形而上学」と表現することができる。ピタゴラス派は、数的関係が世界を秩序付けており、また存在事物一切も数から構成されていると考えた。数そのものを崇拝し研究した彼らは、現代にまで至る数学の基盤となる定理を数多く発見している。「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」はそのうちの一つである。今日ユークリッド幾何学として体系づけられている幾何学的定理や証明の基盤も、ピタゴラス派の研究がその根底にあったと言われている。また、数学だけでなく、音楽と天文学の分野でも数的関係を用いた把握を試みた。
ピタゴラスらが表明した数字の世界は、ギリシア的理性主義の典型とされる。音楽と天文学を数的秩序のもとに組み合わた「天球のハルモニア」をその代表例として紹介しても差し支えないだろう。
ピタゴラスらは音楽の研究を通して、物体が振動する際に「音」が生じ、そしてその振動の速度によって音の高さに差があることを発見していた。これが、地球を取り巻く天体の運動にも当てはまると彼らは考えた。宇宙では途方もなく巨大な物体が常時とてつもない速度で飛行している。とすれば、それらは常に巨大な音を発しているはずである。完全な数的秩序の下で形成されている宇宙が発する音は、完全なる調和の下で美しい音楽を奏でているはずだ。しかし、人間は生まれてから常にその音を聞いているため、もはや音として認識できない。これを聞き分けるには、理性を研ぎ澄ませることで身体的な感覚を超越せねばならない―。惑星で構成されたオーケストラが奏でる完全なる音楽、それが「天球のハルモニア」である。ここに、ギリシア的理性主義のこのうえなく詩的な世界観の表明を見ることができるであろう。
アリストテレス (『形而上学』N3. 1090 b5)
アリストテレス (『政治学』5章 1340 b18)
パルメニデス (前500年頃 ~ 没年不明)
パルメニデスは南イタリアのエレアで生まれた。イオニア自然哲学を受け継いだクセノファネスから学ぶとともに、ピタゴラス学派からの影響も受け、後にエレア派の創始者となった。その哲学はプラトンのイデア思想に大きな思想的背景を提供したとされている。
パルメニデスの思想は極めてシンプルなものだ。「あるものは、ある」「ないものは、ない」この二つの命題が、彼の哲学のほぼ全てである。この簡潔な命題によって、「ないものが、ある」という命題が否定される。「ないものが、ある」の否定とは、すなわち非存在の存在を一切認めないということである。「ない」ことが意味を有するのであれば、非存在もまた存在の一部となり、「ないものは、ない」という命題に矛盾する。このように、パルメニデスは極めて単純明快な命題から非存在の自己矛盾を帰結した。
これが意味することは何か。端的に表現するならば、「時間」と「空間」の否定である。空間とは、「あるもの」を「ないもの」によって分割する概念である。「あるもの」と「あるもの」の間には必ず「ないもの」という空間が生じねばならない。この「ないもの」を否定すると、そこにはもはや絶対なる「ある」以外の何ものも存在せず、空間概念は放棄される。「時間」についても同じ要領でその存在が否定される。パルメニデスはこの思想を、「女神より授かり師真理」という詩文にして表現している。
断片1より
パルメニデスの哲学は、現象世界における生成・消滅・変化・多・場所のすべてを退け、唯一なる存在以外のいかなる存在も認めない絶対的一元世界を生み出した。唯一絶対の存在者は不変不動かつ普遍的であり、生成変化が生じる余地のない絶対的な「静」の哲学だと言える。現在人間が生きる感覚世界はこの絶対世界の下位に位置するものであり、理性でのみ上位世界の真理に触れることができるとパルメニデスは説いた。この思想は、プラトンのイデア論の形成に影響を与えたとされている。
ソフィスト
思想史の中でソフィストたちが顧みられることはあまりない。というのも、彼らは報酬を受け取って人々に弁論術を教える一群の職業的教師であって、思想家ではなかったからである。知識人ではあっても学者ではない彼らを哲学史は取り上げないが、ここでは初期ギリシア哲学とソクラテスを接続する存在としてその時代背景とともに紹介しようと思う。
ソフィストたちの台頭は、アテナイの民主化プロセスとともにあった。前594年のソロンの改革、前507年のクレイステネスの改革などアテナイを中心に展開した民主化運動は、ペルシア戦争の勃発によって完成を見た。東方の大国ペルシアとの戦争にあたって、それまで戦力とみなされていなかった下層階級の人々も戦争に駆り出されたことで、これまで選挙権が認められていなかった人々の力が強まり、諸都市は民主化へと舵を切ったのである。
この時アテナイで採用されたのは直接民主制であった。議会であれ選挙であれ裁判であれ、自身の主張を通すためには壇上から弁舌によって人々の支持を得る必要があった。演説が政治において決定的な力を持つようになったことで、必然的に、大衆を説得するための雄弁術が必要とされるようになった。若者たちはこぞって弁論術を学ぼうとし、特に裕福な市民は自らの子弟に弁論の術を身につけさせようとやっきになった。そして、その術を教えるのがソフィストたちであった。
ところで、この時期アテナイで弁論術を教えたソフィストたちは、イオニア地方や南イタリアからやってきた外国人である。これは、当時アテナイが経済的・軍事的に強国であったとはいえ、思想・文化面においてははるかに遅れていたからである。ペロポネソス半島内で政治的軍事的策略に明け暮れていた諸都市には、文化的基盤が根付いていなかった。よって、アテナイの人々は弁論の術を外国人から買い取るしかなかった。こうして、アテナイには多種多様な思想を身につけた人々が各地から集まり、民主政治の下に様々な言論が飛び交うようになったのである。ギリシア世界中から様々な知識がアテナイに流れ込み、まさにアテナイは世界の中心となったのである。このように思想のるつぼと化したアテナイに登場するのが、哲学の祖ソクラテスである。
ソクラテス
ソクラテスとは何者か
ソクラテスは、神話的な人物である。ソクラテスが実際に何を考え、何を教えたのか、史的な資料は一切存在しない。現在に伝わるソクラテスは、主にプラトン、アリストファネス、クセノフォン、アリストテレスらの報告によるものである。この4者は固有の視点からソクラテスについて語っており、それぞれの記述から一つの人物像を集約できない。プラトンは自身の学説とソクラテスを混同させている。アリストファネスが描いた喜劇はそもそもソクラテスを風刺するためのものであった。クセノフォンはソクラテスの裁判の場面を描いているが、彼自身は当時その場に居合わせていない。アリストテレスにいたっては、師プラトンによるソクラテス解釈のそのまた解釈でしかない。つまり、現在理解されているソクラテスという人物は、約2500年間にわたって続けられてきた解釈の集積体なのである。ソクラテスという人物を、人々が個別に抱いている「哲学者というイメージの器」として捉えた時、その神話的特性が明らかになる。実際、今に伝わるソクラテスの言動は、古今東西の聖人たちのそれになぞられる部分が多い。
・神からの神託をきっかけに、人々に教えを広め始める
・自身で著作を残さず、口頭で教えを説いた
・悲劇的な死を迎え、死の場面は後に伝説化される
・死後、その学説が弟子たちによって編纂される
過去の聖人たちは、生前の言動をもとに、その価値観や世界観を体現する存在となった。ソクラテスについても同じことが言える。ソクラテスという人物の本質を、その人格や学説だけに求めることはできない。いわゆる「ソクラテス問題」と呼ばれるソクラテスの史的真実をめぐる哲学史上のアポリアの追求は、無意味とは言わないがその本質を捉える上では些末なことでしかない。
「ソクラテスは一体なにを問うていたのか」を思考することを促す存在、それがソクラテスという人物の本質である。つまり、ソクラテスという人物は、「哲学する」という抽象概念の擬人化なのである。
もっとも、ソクラテスがそういった存在になったのは、プラトンによるところが大きい。プラトンの対話編はそのほとんどにソクラテスが登場し、多くの作品においてはソクラテスが語り手を務める。そのためソクラテスとプラトンを区別することは困難であるが、今回は、プラトンの著作のうち比較的ソクラテスその人に近いと考えられている初期の作品群、中でも『ソクラテスの弁明・クリトン』を取り上げてソクラテスについて紹介したいと思う。
時代と思想背景
ソクラテスが生きたアテナイの社会的・歴史的背景からまずは考察しよう。先ほども述べた通り、当時のソフィストの需要の急増からアテナイの街には外国から来た知識人を語る人々で溢れていた。ペルシア戦争以後、ギリシア諸都市間の軍事同盟であるデロス同盟の盟主となったアテナイは、ギリシア世界の政治的中心へと変貌していた。同盟の金庫がアテナイに設置されたこともあり、関係都市の政治的交渉や訴訟も併せてアテナイに集中するようになったことから、あらゆる場面で弁論術が必要とされたのである。ソクラテスが誕生したと言われているのはペルシア戦争から約30年後、まさにこのような政治的・文化的交錯のただなかのことだった。
外国の思想家たちがアテナイに集まる一方で、アテナイには長らく思想家は生まれていない。当時のアテナイ市民にとって、弁論術はあくまで外国人から学ぶもので、自分たちが専門的に研究するものではなかったのである。このような歪な知的奔流の中で、ソクラテスは正真正銘アテナイ出身の最初の哲学者であると言ってよいだろう。
哲学者ソクラテスが対峙したものは、未熟な民主制の下で中身のない言説をもってアテナイを混乱させる外国出身のソフィストや、それに従う民衆たちであった。
当時のアテナイの民主制は、最も純粋な意味での民主制であった。すなわち、あらゆる判断が人々の意志のみによって決められるということである。あらゆる判断が弁論によって下されるならば、人々を納得させることができさえすれば、例えその内容がどのようなものであってもそれは正当性を持つことになる。例えば、殺人を犯した人であっても、その主張を人々に納得させることが出来さえすれば無罪放免を勝ち取ることができる可能性があるのだ。逆に、何の罪も犯していない人であっても、裁判にかけられ有罪の判決を下されることも十分にあり得る。
どういうことが起こったか。人々は中身のない弁論に惑わされ、国家は衆愚政治に陥ったのである。民意が国政のすべてを握るということは、あえて乱暴な言い方をすれば、自分自身の利益を弁論術を用いて国政に反映させることができるということだ。当然、弁論の術を学んだ扇動家が現れる。彼らは弁論家ではあっても政治家や軍人ではない。そのような者が国家の役職を占めるようになり、アテナイは国家として妥当な判断を下すことができなくなってしまったのだ。実際に、ペルシア戦争後に起こったペロポネソス戦争の敗退によってアテナイは覇権国家としての地位を失うことになるが、まさにこの敗退の原因こそが衆愚政治の結果だったと言われている。
熱心な愛国者でもあったソクラテスはこの状況を嘆いた。そこで彼は、詭弁はこびるアテナイで、「正義とは何か」「知識とは何か」を人々に問い続けたのである。ソクラテスは『ソクラテスの弁明』の冒頭部分でこう述べる。
プラトン (『ソクラテスの弁明』17b-17c)
自身の言説とソフィストの弁論をこうもアイロニカルに対比させる程、ソクラテスはソフィストに対する問題意識を強く持っていた。祖国が政治的動乱に陥る中で、ソクラテスはその原因をソフィストたちの弁論術による扇動に見た。ソクラテスの「問いの哲学」は、このようなアテナイの社会的背景が生み出したものなのである。
ソクラテスの弁明
ソクラテスは弁論術を用いて祖国アテナイを混乱させるソフィストたちへの批判として「問答」を始めたわけだが、皮肉なことに、所構わず問答を繰り返すソクラテス自身がアテナイを惑わすソフィストとしての嫌疑をかけら告発されてしまう。ソクラテスが告発され死刑に至るまでの裁判の一部始終を題材にしたのが『ソクラテスの弁明』である。『弁明』はあくまでプラトンによる作品であってその記録ではないが、歴史上のソクラテスをかなり正確に反映したものであると考えられている。それでは、『弁明』に従ってソクラテスという人物について見てみよう。
ソクラテスは、メレートスという人物によって告発され、裁判の場に呼び出される。ソクラテスに掛けられた罪状は以下の通りである。
プラトン (『ソクラテスの弁明』24b-24c)
ソクラテスには、若者を堕落させた罪、国家宗教に背いた罪、の2つの嫌疑がかけられていた。それでは、どうしてソクラテスはこのような嫌疑にかけられることになったのだろうか。その経緯を見てみよう。
ことの発端はこうだ。ある時ソクラテスの友人のカイレポンという人物がデルフォイにあるアポロン神殿に赴き、神に「ソクラテスより知恵のある者はいるだろうか」という伺いをたてた。すると、「一人もいない」という神託がくだされた。
プラトン (『ソクラテスの弁明』21a)
自分に知恵があるとは思ってもいなかったソクラテスはこの神託の意味を図りかねる。そこで、自分よりはるかに知恵があるだろう人々を訪ねることによって、神託が一体どういう意味を持っているのかを理解しようとした。この時ソクラテスが訪ねた人は、政治家・詩人・技術者の3者である。この3者と対話を重ねていくうちに、一般的に知恵者と呼ばれている彼らも実は何の知恵を持っていないのだとソクラテスは考えるに至る。
プラトン (『ソクラテスの弁明』21c)
そしてソクラテスは、対話を交わした人々よりもある一点において自分の方が知恵があるのだと考えた。それが、「自分は、知らないことを知らないと知っている」ということである。
プラトン (『ソクラテスの弁明』21d)
ここで、ソクラテスは神の託宣の意味を、「本来知識と呼ばれるものを持っているのは神だけであり、人間はそのごくわずかを持てるに過ぎない。それなのに、人々の中には自分があたかも全ての知識を持っているかのように振る舞う人が多すぎる。なので、ソクラテスのように、自分は何も知識を持っていないということを知っている人が人間の中で最も知恵のある者である。」と解釈する。それ以来ソクラテスは、神の託宣をもとに人々に「無知の自覚」を促すために問答を繰り返すのである。
この問答というのが、人々の恨みを買う原因となった。ソクラテスは様々な人々のもとに出向いては、「徳とは何か」「善とは何か」「正義とは何か」「勇気とは何か」などの問いを繰り返す。もちろん、それらの問いに答えなどあるはずもない。最終的に相手が答えに窮し、「ソクラテスよ、それではお前はどう考えているのか」と問い返すと、「それは私にもわかりません」といってソクラテスはとぼけるのである。ある時は道を通りかかる人々に、ある時は有名な政治家や軍人に、彼は分け隔てなくこのような問答を繰りしていた。そんなことをしていると、いつかどこかで角が立つというものだ。こうしてソクラテスは裁判の場に引っ張り出されることになったのである。
裁判の結果、結局ソクラテスは死刑になる。しかし、実はこの裁判は本来死刑になるようなものではなかったとも言われている。有力者たちの恨みを買っていたとはいえ、ソクラテス自身は何かの役職についていたわけではない。日がな一日中問答を繰り返して過ごすものだから、富など持っているはずもなかった。また、ソクラテスに感銘を受けて付き従っていた人もいたとはいえ、せいぜい十数人の規模であり、その影響力など高が知れている。なにより、裁判の時点でソクラテスは70歳であり、これは成人男性の平均寿命がおよそ50歳程度であったギリシア世界においてかなり高齢である。死刑にならずとも、明日には寿命を迎えてもおかしくのない年齢なのだ。
富も権力も影響力も持たない老ソクラテスを、誰がわざわざ死刑にしようと思うだろうか。告発者たちにしてみれば、何も死刑とまではいかずとも、目の上のたんこぶのような存在だったソクラテスを見せしめにアテナイから追放(アテナイの外には喜んでソクラテスを保護したであろう支持者がいた)、あるいは問答することを辞めさせることができればそれでよかったのである。
裁判の陪審員の中には、彼が哲学を辞めさえすれば無罪放免にしてもいいだろうと考えている人も大勢いた。ソクラテスが自分の残り少ない余生を静かに過ごすということを選択しさえすれば、彼が無罪を勝ち取る方法はいくらでもあっただろう。しかし、ソクラテスはそれを拒んだ。ソクラテスにとって「死刑になることを恐れて哲学を放棄することは、それこそが最大の不正」だったのである。
プラトン(『ソクラテスの弁明』29d)
ソクラテスは強情なまでに、自身の生き方を改めようとはしなかった。裁判である以上、態度を全く改めることのないソクラテスに対して戸惑いながらも、陪審員は厳しい判決にならざるを得なかった。500人の陪審員による投票の結果、わずか30票の差でソクラテスは有罪となり、死刑判決が下された。
ソクラテスと哲学の本質
哲学、いや、概して学問全般について言えることかもしれないが、ある思想や知識の真価は、その内容というよりも、それが「何を問うたか」をもって図られるものではないだろうか。この意味において、ソクラテスは人類史上比類なき大哲学者なのである。ソクラテスは、彼以前の哲学者がそうしたように、「世界とは何か」「自然とは何か」などの自然学的な諸問題を全く扱わなかった。彼が問うたことは、「人はいかに生きるべきか」の一点に集約されるだろう。思想史はソクラテスにおいて決定的に転換するが、それはまさに「世界とは何か」という問いから「人が善く生きるとはどういうことか」という問いへの転換であると言ってよい。
自身が提出した「人が善く生きるとはどういうことか」という問いに対するソクラテスの解答は、「知恵の愛求(philosophia)」という生き方であった。この解答そのものに対する異論反論は多々あるだろう。僕自身も、それが最善の生き方であるとは正直思えない。
しかし、繰り返しになるが、哲学者にとって、「問い」に比べればその解答などさほど重要ではない。ソクラテスは自身の「問い」を自分の命を惜しまず追求した。その生きざまに、僕たちは哲学の輝きを見るのである。飽くなき知識の探求を善しとしたソクラテスは、その生き方に一切の妥協も許さなかった。信託の真意を悟った瞬間から、彼は知識の追求という生き方を「善」であるとし、たとえ裁判に掛けられ死刑になろうとも問うことを辞めなかった。ソクラテスは頑なに自身の「問い」を守り抜いたからこそ、その「問い」は現代においても意味を失っていないのである。ソクラテスは、今でも哲学者の偶像として「人はいかに生きるべきか」を人々に問い続けている。
問う人ソクラテスに強く感銘を受け、ソクラテスの弁明をもっとも近くで見届け、そしてその影響をもっとも強く受けた人が、次に紹介するプラトンだった。彼は恩師の死を目に焼き付け、その姿を追い求め続けた人である。
プラトン
プラトンとその思想について
プラトンは、アテナイ有数の由緒ある家柄に生まれた。若きプラトンは、他の貴族の子息が目指すのと同じように当初は政治家を志望していた。しかし、政治的動乱による祖国アテナイの衰退は、プラトンの進路に大きな影響を及ぼした。若きプラトンが生きた時代、アテナイはペロポネソス戦争の真っただ中だった。ペロポネソス戦争はアテナイの決定的な敗戦に終わり、その後アテナイの政治体制は民主主義の反動によって寡頭政権に移行する。寡頭政権として台頭した三十人政権は当初は期待されていたが、恐怖政治を行うなどして民衆の反発を買い、結局倒れることになる。一向にアテナイの状況がよくならないのを見るにつけ、プラトンは政治に失望する。そして、プラトンの政治への失望は恩師ソクラテスの死刑によって決定的なものになった。ソクラテスは誰よりもアテナイのためを思って問答を続けていたにも関わらず、当のアテナイ市民たちから処刑を言い渡された。この経験は、プラトンが「正しさとは何か」「善とは何か」という問いを胸に刻み付けるにはあまりある出来事であった。こうして、プラトンは哲学を探求する道を進むことになったのである。
プラトンの思想は恩師ソクラテスの問答とピタゴラス学派の二世界論の両輪から成り立っている。プラトンが師ソクラテスから絶大なる影響を受けていたことは、著作である対話篇の語り手の大半がソクラテスであることからも明らかである。プラトンはソクラテスに出会ってから9年間彼のもとにとどまり、その教えを学び取った。プラトンがソクラテスと非常に親しい間柄であったことは疑い得ない。それだけにソクラテスの死刑はプラトンにとって衝撃的だったわけだが、この出来事は結果的にプラトンが多様な思想を世界から学ぶきっかけにもなった。
ソクラテスが処刑されたことで、彼と親しかったプラトンもアテナイに居づらくなり、以後12年間各地を遍歴する。この遍歴の間に出会ったのが、ピュタゴラスに始まる合理哲学、特にパルメニデスの二世界論である。パルメニデスらの合理哲学は、理性により把握できる知識と感覚的知覚で認識する諸事象を区別する。合理主義哲学者にとっての最大の課題は、理性で把握できる知識を追い求めることであり、究極的には生成変化する現実世界に見切りをつけ、理性の世界に旅立つことを目指すものである。プラトン哲学を貫くイデア思想は、こういった合理主義的思想が源流になっていると言われている。
プラトンは非常に多くの著作を残しているため、その思想をひとまとめにして語ることはできない。そこで今回は、プラトンの主著『国家』より、彼の形而上学と倫理学を紹介する。
形而上学
プラトン哲学の根幹をなすもの、それがイデア論である。イデアとは、ある名称で呼ばれている「当のそのもの」のことである。私たちが普段言葉を用いて表現している物事すべては「当のそのもの」ではなく、「当のそのもの」の性質を持った何かである。例えば、「線」を思い浮かべていただきたい。手元の紙に書いてみるのもいいだろう。今思い浮かべていただいた線、あるいは紙に書いていただいた線は、おそらく厳密には線ではないだろう。「線」とはある2つの点に挟まれた直線の部分のことであり、本来幅を持たない存在である。幅を持たない線をイメージしたり紙に書いたりすることはとても難しい。おそらく、皆さんがイメージしたり紙に書いたりした「線」は黒い横棒だろう。
定義としての「線」は厳密には現実世界に存在しないのである(「境界」に線分は存在するが、それはなんらかの「境界」がないと線分が存在できないということなので、これもやはり「線そのもの」ではないだろう)。「線」に限らず、「象」でも「机」でもなんでもよいが、現実世界に存在するそれらは「象そのもの」、「机そのもの」ではない。それらはただ「象そのものの性質を持った何か」、「机そのものの性質を持った何か」でしかないのである。
物事の本質である「当のそのもの」が、すなわちイデアである。この世界の存在や概念すべては、「当のそのもの」であるイデアの性質を「分有」しているに過ぎない。「当のそのもの」であるイデアは単一であり、現実世界のあらゆる存在はイデアの性質を分け持つことによってその存在を認識されているのである。イデアは常に不変であるが、イデアを分有するものはそうではない。例えば花が種子から成長する場合、種であるときには「種そのもの」を分有しているが、それが花になった際には「種そのもの」を分有することをやめ、「花そのもの」を分有するようになるのである。このように、イデアは永遠不変、単相、単一、という性質を持ち、それは心の思考の働きによってのみ把握され得るものである。
それでは、「イデア」とはいったいどこにあるのか。プラトンは、現実世界とは異なる場所に「イデア界」が存在すると考えた。これが、永遠不変の「イデア界」と生成変化する「現実世界」の二世界論である。このような「理性によって把握される存在」と「感覚によって知覚される存在」の区別は、現代に至るまで西洋哲学を支配する思考様式となっている。
イデア界とイデアを分有するものの世界という二世界論は、人間の「魂」と「肉体」を区別する心身二元論にも結び付いている。「魂」という存在は元々「魂そのもの」としてイデア界に存在していたが、生成変化する現実世界に感覚的知覚を持つ肉体と共に零れ落ち、かつてのイデアの世界を忘れてしまっている。そこで、魂に備わる理性の力を発揮することで、普遍の存在であるイデアの世界に近づくことが人間にとって善いことなのである。こ忘却しているイデアの「想起」をプラトンは「恋(eros)」と表現した。プラトンにとっては、真実の知は「恋」のようにどうしようもなく焦がれる存在だったのである。
倫理学
プラトンの倫理学については、『国家』から直接議論を参照しながら紹介しようと思う。『国家』で展開される議論は、現代に生きる僕たちの倫理観に直接適用することができるからだ。ソクラテスの相手役となるトラシュマコスとグラウコンの倫理に対する挑戦は、きっと誰もが暗に明に経験したことのある葛藤だろう。
『国家』は、ソクラテスがアテナイの外港ペイライエウスで開催されている祭りを見に出かけた帰り際に、知人の家で「正しさとは何か」についての議論を行うという場面を描いている。ソクラテスの議論の相手を務めるのが、トラシュマコスとグラウコンだ。
「正しさとは何か」の議論は、ソクラテスの友人である老ケファロスとの「老齢について」の対話から始まる。高齢でかつ裕福であったケファロスに対してソクラテスは問う。「あなたが老年を楽に過ごしているのは、あなた自身が善い人であるからではなく、単にあなたがたくさんの財産を持っているからである、と人は言うでしょう」と。ケファロスは「財産が役に立つのは間違いない。というのも、財産があれば、神様に供物を捧げることや、他人に借りたお金を返すことができるからだ。この世に借りを残さずに済むため、安心してあの世に渡ることができる」と答える。ここでソクラテスは、「借りたものを返すことが果たして正しいことであるのでしょうか。例えば、友人から武器を借りていたとして、その友人が正気を失っている場合であってもその武器を返すことは正しいと言えるでしょうか」という問いを提出する。話題が「正義とは何か」に移ったところでケファロスは退出し、以後トラシュマコスとグラウコンが議論を進める。
まずソクラテスは、正義とは人間にとって絶対的に必要なものであるという正義の自明性を説いた。人々は当然正義に則った生活をする必要があり、そうすることによって善い生活を送ることができるのだと。これに対して反論したのがトラシュマコスであった。トラシュマコスの主張は「正義とは強者の理論である。支配者が自らの利益のために被支配者に押し付けたものが正義の正体であり、すなわちそれは人為的な決まりごとに過ぎない」というものである
プラトン(『国家』338c)
「正義」などというものは本来存在せず、それは支配者によるイデオロギーに過ぎないのである。支配者にとって都合の良いルールが法律として設定され、同じように思想においても正義として人々の内に従うべき規範として形成されていく。つまりトラシュマコスは、利己主義こそが人間の本性であり、正義とは強いものが自己の利益のために設定した何の根拠もないものであると主張しているのである。この議論に従うならば、正義というものはそもそも存在せず、よってそれに従う必要もないということになる。
これに対してソクラテスは、目的論的な観点から反論する。ソクラテスは、職業における「技術の使用による便益」と「報酬」を切り分けて考察した。例えば、医者が持つ医療技術それそのものの性質は患者を治療することであって、報酬を得ることではない。医療技術による医者の便益は患者の治療のみであり、報酬獲得は医療とは直接的には結びついていないのである。支配者についても同じことが言えるだろう。厳密な意味での支配者の役割とは「自分が支配する者たちの利益を考察し命令する存在」であり、トラシュマコスの主張するところの弱者から搾取する存在としての支配者という概念を覆される。支配者それそのものの性質は「支配する者たちに利益をもたらす技術」であり、正義を支配者による搾取のイデオロギーであるとみなすことはできないのである。
もちろん実際はより緻密な論理が組立てられてはいるが、見ての通り、どこか狐につままれたかのような議論である。それもそのはずで、なぜなら、そもそもの当初の問いであった「正義とは何か」をこの反駁ではまったく答えられていないからだ。そこで、この解答に不満を持ったグラウコンは、正義そのものをより浮彫にした議論を展開するために、トラシュマコスの主張をさらに発展させてソクラテスに挑戦する。彼の主張はおおよそ以下の通りである。
「正義が支配者のイデオロギーと言えないのはわかった。しかし、結局のところ正義が人々の利己主義の産物でしかないことに変わりはないのではないだろうか。正義という概念の成立過程を人々の利己主義という観点から説明してみようと思う。
さて、人々にとって、正しい行いをするよりも不正な行いをする方がより大きな利益を得ることができることは明白である。働いてお金を手に入れるよりも、人からお金を盗む方がはるかに容易いことはすぐにわかる。しかし、実際には正義あるいは法律などの規範が生まれ、人々はある程度秩序だった生活をしている。
このような規範が生まれたのは、不正をして得ることができる利益よりも、不正をされることで失う利益の方が大きいためだからではないだろうか。不正が許容される社会では、ごく一部の力の強い者が弱者から搾取を行うことになるだろう。すなわち、大多数の弱者にとっては、不正によって一時的に利益を得たとしても、自分より力のある人により多くの不正をされることで結局は損になるのだ。なので、人々は自分より強いものから自らの財産を不当に奪われないように法律を作って不正を制限することを選んだ。つまり、大多数の人々が自らの利益を守るために正義という概念は生み出されたのであって、それは絶対的なものではないのである。このような法律こそが一般の人々が考える正しさの本質である」
このグラウコンの議論は決定的に重要である。なぜなら、この主張は「なぜ人は正しい行いをする必要があるのか」という問いから「なぜ人は不正をしないのか」という問いへの転換を含んでいるからだ。「正義」の本質を考える上で必要なのは、そもそも「正義」は必要なのかという、概念そのものの自明性を疑うという活動である。考えてみれば、人が正しい行いを必要とする根拠は一つもない。人も生物である以上生存本能がその活動に組み込まれているわけだが、生存に必要とする物資は自分で生産するよりも他人から略奪するほうが本来はるかに合理的なのだ。例えば、何か欲しいものがあったときに、買うよりも盗む方が圧倒的に手間はかからない。なぜなら、商品を買うためには金銭を得るために働く必要があるが、盗めば働くという手間をかけずに商品を手に入れることができる。グラウコンはこのような自然状態を想定した上で、大勢の人々が自身の利益を守るために作り出したシステムがすなわち「正義」なのであって、結局のところ絶対的な善さなど存在しないのではないか。これが彼の主張するところである。
さらにグラウコンは、ある種の極限状態を想定することで正義の本質に接近することを試みる。彼の議論をもう少し先まで見てみよう。
「正義の本質が人々が自身の利益を守るために結んだ協約であるということは、『不正が絶対にばれない状況』を想定することで証明することができるのではないだろうか。このような話がある。昔、リディアという国に羊飼いのギュゲスという男がいた。ある時ギュゲスは、地震で裂けた大地の中から黄金に輝く指輪を見つけた。この指輪をはめて羊飼いの集会に参加していた時、ふと指輪の玉受けを自分の方に回してみた。するとどうだろう。たちまち彼の姿はかたわらに座っていた人から見えなくなってしまった。指輪には、身につけた人を見えなくしてしまう力が備わっていたのである。ギュゲスは指輪の力に気が付くと、さっそく王様の寝室に忍びこみ、王妃と通じたのち、姫と共謀して王を殺してしまった。このようにして、ギュゲスは王権を略奪したのである。
さて仮にこの『ギュゲスの指輪』を正しい人が手に入れたとしよう。どれだけ正しい人であっても、ギュゲスの指輪を手に入れて正義の内に留まる人など一人もいないのではないか。何でも好きなものを市場から手に入れることができるし、誰とでも好きな人と交わることもできるし、嫌いな人を殺してもいい。何事につけても、人間の中で神のように振る舞えるのに!このことこそ、自発的に正しい人間など存在せず、人々は自分の利益を守るためにやむを得ず『正しさ』に従っている証拠である。不正をはたらくことができる場合には人々は必ず不正をはたらくのだから、正義とは当人にとって善いものではないのだ」
グラウコンはさらに続ける。
「さらに『正義とは何か』について深掘るために、一方に最も不正な人間を、他方に最も正しい人間を置いてこの二人の生を比較してみようではないか。最も不正な人間とは、最大の悪事を働きながら、正しさにおいて彼の右に出るものはいないという評判を持つ者のことだ。彼はどんな悪事を働こうともそれを隠し通せるだけの力を持ち、最大の評判を得ながら最大の利益を得ることができる。彼は正しい人間と思われているがゆえに、国の支配者となり、好きなところから妻をもらい、彼の一族は繁栄を極めるだろう。
一方で、最も正しい人間とは、何ひとつ不正をはたらかないのに、最も不正な人間であるという評判を受ける者のことである。誰よりも正しく生きていながら、誰からも蔑まれ続ける。生涯を通じて最も不正な人間であるという罵声を浴びながら、彼はそれでも堅固普遍に『正義』を貫く。誰よりも不正だと思われているために、最後には、この人は鞭打たれ、拷問にかけられ、ありとあらゆる責苦を受けたすえ、磔にされるだろう。この二人の人生を比べたときに、幸せな人であるのは明らかに最も不正な人間のほうではないか。正義とはいかにむなしく儚いものなのだろうか…」
ここに、プラトンの正義論の凄みがある。最も正しくありながら最も不正な評判を受けるとすれば、それでも正義は守られるべきなのだろうかと、彼は問う。プラトンが「最も正しい人」に処刑された師ソクラテスの姿を重ね合わせていることは明白だ。痛いほどに、プラトンのソクラテスに対する想いが見える。ソクラテスは誰よりも正しく生き、しかし最後には最も不正な人であるという嫌疑をかけられ処刑された。正義を貫いたからといって幸せな人生を送ることができるとは限らない。
本来は、最も正しい人が最も幸福な人生を送るべきなのである。だって、そうじゃないとおかしい。ではなぜソクラテスは処刑されたのだ。この世界は不正な人間のほうが幸福に生きられるのか。だったら、この世に正義など存在しないのではないか。それとも、それでも人は正義に生きる必要があるのだろうか。このようなソクラテスの死に対するプラトンの葛藤が、この議論で再現されているのだ。突き詰めると、『国家』における正義の議論とは、プラトンにとってのソクラテスの正しさの弁証なのである。
以上が『国家』における問題提起である。ここまでの議論は、全10巻からなる『国家』の1巻と2巻に収められている。この議論の結論は、この後最終巻まで待たなければならない。今回は結論のみを紹介するが、結論に至るまでに『国家』全体の約8割を使って緻密な議論が重ねられているということを心に留めておく必要があるだろう。ソクラテスの結論は、およそ以下のとおりである。
「魂は、本来それそのものにおいて不死である。しかし、肉体が毒によって滅ぶように、魂も不正な行いによって滅び得る。つまり、正義の徳は私たちの<魂そのもの>にとって最善のものであり、ギュゲスの指輪を持っていようといまいと、魂は必ず正しいことを心掛けなければならない」
先に述べたプラトンのイデア論を思い出していただきたい。プラトンは、「善」という概念についても「善そのもの」というイデアを措定する。僕たちの本性である「魂そのもの」は、「善そのもの」によってのみ健全に保たれる。なので、どれだけ不正であるとの誤解を受けたとしても、正しい人は「善そのもの」のイデアの下に真に幸福な人生を生きているのである。一方で不正な行いをしている人は、その魂が不正によって害されているがゆえに、実は不幸なのである。つまりプラトンは、「それでも正しくあるべきだ」という結論を導き出したのである。
僕は、正直この結論に完全に同意することはできない。人々が悩み苦しむのはあくまで現実世界での出来事が原因であるはずだ。現実世界での問題をイデア界という別世界の概念を用いて解消することは、果たして本当の解決と言えるのだろうか。たとえどれだけ困難だとしても、僕たちは現実社会の矛盾を現実世界のレベルで解決する方法を模索するべきではないだろうか。現実世界の人間にとっての幸福は、現実世界で得られるもののはずだ。イデア界の措定は、たしかに精神は救うことができるかもしれない。どれだけ不幸であっても自分が正しいという確信を持てさえすれば、その人は善く生きることができるだろう。しかし現実には、魂の安息を堅固不変に信じることができる人はそう多くはいない。だからこそ、現実世界のレベルで、どのようにすれば人々が善く生きることができるのか、そのシステムに目を向けて改善していく必要があるのではないかと僕は考える。
とはいえ、議論の方法と過程など、その結論に比べれば取るに足らない問題だ。ソクラテスの死、また様々な思想や現実に直面する問題全てに逃げることなく真っ向から向き合った末に、プラトンは「それでも」と叫んだのだ。プラトン自身も、本質的な部分では自身の説明が説明になっていないことはわかっていたのではないだろうか。現実世界の事象では説明できなくても、それでも人は正しくあるべきなんだと、プラトンは示す。その精神の高潔さに比べれば、議論の内容に関する僕の小さな不満など一体どれほどの意味を持つだろうか。僕だって、普遍不朽の正義があると信じている。たとえ論理的で実証的な説明ができずとも。多くの人にとってもそれは同じであるはずだ。だからこそ、プラトンの正義の議論は現代においてもその輝きを失うことはないのである。
プラトン (『国家』612d)
アリストテレス
アリストテレスとその思想について
プラトンとしばしば対比させられるのが、アリストテレスである。プラトンの弟子であったアリストテレスの思想は、学問への影響という点だけで見れば、師プラトンのそれをはるかに凌ぐ。彼以前の学問はほぼ全てを彼によって体系づけられ、また彼以後の思想はほぼ全てが彼に基づくものとなった。
アリストテレスは紀元前384年に医者の家庭に生まれ、17歳の時にプラトンが創立した学園アカデメイアに入学した。アリストテレスはプラトンが没するまでの約20年間をここで学んだ。学園でのアリストテレスは熱心かつ優秀で、プラトンは彼のことを「学園の知性」とまで評した。しかし、やがてアリストテレスは師プラトンとは異なる思想を持つようになり、プラトンの死を契機に彼の哲学とは決定的に袂を分かつ。プラトンの死後アカデメイアを離れ各地を遍歴するが、50歳の時にアテナイに戻り市外の森にリュケイオンと呼ばれる学園を開設した。今日アリストテレス哲学と呼ばれている諸研究は、リュケイオンで行われていた講義ノートや講義資料に基づいていると考えられている。
アリストテレスは、今日存在しているほとんどの学問の基礎を築き、さらにあらゆる学問的探求の方法を整備した人物である。僕たちが「学問」と言ったときに思い浮かぶもの全てが彼の功績であると言っても過言ではないだろう。「万学の祖」は比喩ではない。彼の学問は5000年の人類史のうちの、実に2000年を支配した。それゆえアリストテレスの学問は巨大かつ不朽であるとともに、いやそうであったからこそ、それ以後の学問の発展を妨げたともいわれている。デカルトが「われ思う」と表明するまで、哲学はまさに「アリストテレスはこう言った」で埋め尽くされていたのである。ジョン・ロックはこの事態を「神は人間を二本足の動物としてお造りになっただけで、これを理性あるものとする仕事はアリストテレスにお任せになったというほど物惜しみされたわけではない」と皮肉ったという。
その広範に及ぶアリストテレスの学説の中から、今回は論理学、形而上学、倫理学のほんの一部を紹介する。
論理学
論理学は、学問的探求を行う上で必要な論理的思考を定式化したいわば「学問の道具」である。アリストテレスが論理学において述べた著作群は一括して『オルガノン』と呼ばれている。以下、アリストテレスの論理学説を概念(語)・命題(文)・推論(三段論法)の順で概説し、そこから導かれる学問的知識探求の方法について述べていく。
概念(個々の語)
「概念」は、「結合によって語られるもの」と「結合なしに語られるもの」に分けることができる。結合によって語られる概念とはすなわち文のことであり、例えば「犬は散歩する」や「りんごは落ちる」などである。「結合なしに語られるもの」とは、「犬」、「散歩する」、「りんご」、「落ちる」などの個々の語のことである。
概念は一般に「類」と「種」の関係性を持つ。人間、犬、鳥、魚は動物の種であり、動物は人間、犬、鳥、魚の類である。つまり、「類」は「種」に対して上位のカテゴリーにある概念のことである。
「類」を「種」に分割するものが、「種差」である。例えば、犬という「類」の下に、ジャーマンシェパード、トイプードル、柴犬という「種」があるとしよう。この場合、「かっこいい」、「ふわふわ」、「賢い」などが種差である。
「類」、「種」、「種差」を用いることで、概念を定義づけすることができる。例えば、「ジャーマンシェパードはかっこいい犬である」というように。
もはやそれ以上分割することができない最下の「種」が個物である。例えば、「ソクラテス」「アリストテレス」などは個物であり、それより下位のカテゴリーは存在しない。
もはやそれ以遡ることができない「類」を整理したのが、アリストテレスの範疇(カテゴリー)理論である。
ギリシア語における「カテゴリー」の元々の意味は「述語付け」である。つまり、範疇論とは述語になり得る概念の分類なのである。アリストテレスは次の10個を範疇として挙げている。
「量」 (例:2尺、3尺)
「質」 (例:白い、文法的)
「関係」 (例:二倍、半分、より大きい)
「場所」 (例:リュケイオン、市場)
「時」 (例:昨日、昨年)
「体位」 (例:横たわっている、坐っている)
「所持」 (例:靴を履いている、武装している)
「能動」 (例:切る、焼く)
「受動」 (例:切られる、焼かれる)
これら10個の述語概念は、分類として相互排他的である。言い換えると、ある範疇に対して問いを立てたときに、それ以外の範疇では答えることができない分類であると言える。例えば、「あれは何メートルありますか」という「量」を問う質問で、「昨日である」、「あれは白い」と答えることはできない。「量」を問われた以上「量」で答えるしかない。他の場合でも同じである。このように、ある範疇に対する問いを他の範疇概念で答えることはできず、したがってこれらの範疇は述語の最高の諸類であると言える。
命題(文)
先ほどは個々の語で表される概念(「犬」、「りんご」、「歩く」)について考察した。ここでは「結合によって語られるもの」、すなわち文で表される領域について見ていこう。
論理学において、判断を言語で表したもの文章を命題と呼ぶ。語を結合させることによって文章は成立するが、全ての文章が命題であるわけではない。命題は必ず真または偽であるという特徴を持つ。真または偽の判断がなされないものは文章であっても命題ではない。例えば、「子犬は動物である」は命題であるが、「子犬がかわいい」は命題ではない。
「量」、「質」、「様相」の3つの観点から命題は区分される。
「量」によって命題は、全称的であるか、特称的であるかに分けられる。全称的とは、「すべてのAはBである」というように、述語が主語に対して普遍的に位置付けられる命題のことを言う。特称的とは、「若干のAはBである」のように、主語が特殊に述語付けられる命題のことを言う。つまり、全称的か特称的かというのは、それが全体に当てはまる(全称的)ものか、一部に当てはまる(特称的)ものかという範囲の区分である。また、「質」の観点からは命題は肯定的か否定的かに分けられる。
「量」と「質」のそれぞれ2つの区分によって、命題は以下の4つの形にまとめることができる。
全称否定 「すべてのAはBでない」
特称肯定 「若干のAはBである」
特称否定 「若干のAはBでない」
また、様相の観点からは、命題は実然的、必然的、蓋然的に分けられる。実然的とは「AはBであらねばならない」と端的に表明する言い方であり、必然的とは「「AはBであらねばならない」とする言い方であり、蓋然的とは「AはBであるかもしれない」という言い方である。
これらの命題の区分はアリストテレスによってはじめて明確に区分され、これ以後形式論理学において不動の基礎となった。論理学におけるアリストテレスの研究は、カントをして「論理学はアリストテレス以来一歩も前進も後退もしなかった」と言わしめた。
推論(三段論法)
命題について整理したところで、次は命題を組み合わせて行う推論について見てみよう。ここで言う推論とは三段論法のことであり、アリストテレスは三段論法を定式化した初めての人であった。
三段論法とは、二つの命題を前提におくことで一つの命題を導き出す方法である。例えば、「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ」がそれである。「すべての人間は死ぬ」と「ソクラテスは人間である」という二つの命題は、「人間」という語によって結び付けられ、そこから「ソクラテスは死ぬ」という第3の命題が導かれている。二つの前提のうち、前者を大前提、後者を小前提と呼ぶ。
この推論においては「死ぬ」、「人間」、「ソクラテス」の3つの概念が登場する。この時、「死ぬ」と「ソクラテス」は「人間」によって結びついているのがわかる。「死ぬ」の位置に置かれる概念を大名辞、「人間」に位置に置かれる概念を中名辞、「ソクラテス」の位置に置かれる概念を小名辞という。大名辞(「死ぬ」)をP、中名辞(「人間」)をM、小名辞(「ソクラテス」)をSとすると、先ほどの三段推論は以下のように表現できる。
[小前提] S - M ソクラテス(S)は人間(M)である
[結論] S - P ゆえにソクラテス(S)は死ぬ(P)
M = P , S = M , よって S = P
この時、中名辞(M)の役割が大前提と小前提を結び付けるうえで決定的に重要になっていることがわかる。アリストテレスは推論における中名辞の位置によって三段論法に3つの種類を設けた。上記の推論のように、中名辞(M)が大前提では主語の位置に、小前提では述語の位置にくるものを「推論第一格」と呼んだ。
これに対して、中名辞(M)が大前提においても小前提においても述語の位置にくる推論のことを「推論第二格」と呼ぶ。「正しい人は嘘をつかない。若干の人は嘘をつく。ゆえに若干の人は正しい人でない」といった推論がそれである。
「推論第三格」は、中名辞(M)が大前提においても小前提においても主語の位置にくる推論のことである。「動物は全て死ぬ。動物の一部は人間である。ゆえにすべての人間は死ぬ」というものである。
以上のように、アリストテレスは推論の形式を3つに区別した。後に、中名辞が大前提において述語となり、小前提において主語となる推論第四格が付け加えられ、伝統的論理学は推論を4つの形式で区別している。
推論には3つの命題が用いられるが、それぞれの命題には先ほど区別した4つの形式(全称肯定、全称否定、特称肯定、特称否定)がある。それゆえ、アリストテレスが区別した3つの推論形式それぞれに64通りの命題の組み合わせ(大前提4通り、小前提4通り、結論4通り)が存在し、3つの格を合計すると、推論には64×3=192通りの形が存在することになる。この192通りのうち推論として成立するのは14通りである。これら14通りの推論が、アリストテレスの示した論証の定式である。
学問的知識探求の方法
アリストテレスは、「学問的知識」は以上の定式化された推論の手続きを厳密に踏むことで構成されなければならないと考えた。なぜなら、ある物事を「知っている」とは、アリストテレスにとっては「ある物事をその原因から知っている」ことだからである。つまり、先に述べた論理学から言葉を借りれば、「ある結論がどのような前提の下で成り立つのかを知っている」ことが本来的な意味での「学問的知識」なのである。
ところでアリストテレスは、学問的知識が論証によって探求される以上、学問にはある一定の領域が存在すると考えた。「論証科学は領域性を持つ」というのは、論証の構造分析から帰結するアリストテレスの重要な知見である。例えば、「幾何学」は「点」、「線」、「面」などを前提として成り立つ学問領域である。これらは幾何学分野における「原理的命題」であって、これらに関する命題からは幾何学的知見しか導くことができない。「点」、「線」、「面」から、自然科学的知見や倫理学的知見を導くことはできないだろう。
学問的知識には領域性が存在するとすれば、次に問題になるのは、ある特定の領域を成り立たせる「第一の事柄」とは何であるかといことである。「第一の事柄」とは、厳密に定義づけるならば、ある一連の因果関係においてそれ以上遡ることができない究極の原因のことである。それ以上遡ることができない命題のことを「定義命題」という。例えば幾何学においては、先ほど述べた「点」、「線」、「面」などの命題である。
先ほどの「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ」という推論においても、「すべての人間は死ぬ」と「ソクラテスは人間である」という両命題を何らかの形で知っていなければならない。あらゆる推論において前提となる命題の究極が定義命題であるが、アリストテレスによれば、このような命題は帰納あるいは直知によって獲得されるものである。帰納とは個々に経験される事例から1つの普遍的な知識を獲得する方法である。例えば、「人間であるタレスは死んだ、人間であるヘラクレイトスは死んだ、人間であるプラトンは死んだ。よって全ての人間は死ぬ」という推論がこれである。帰納法による推論は、現実世界で観測可能な諸事象から普遍的知識を導く方法であり、人間感覚の自明性を前提としている。この点でアリストテレスはプラトンとは異なり、感覚的世界を虚像とするのではなく、現実的感覚に知識獲得の重要性を与えている。これが、アリストテレスの哲学がプラトンと比べて経験的・実証的であると評されるゆえんである。
形而上学
以上の議論により、論証的方法による学問的知識獲得には領域性が伴うことが明らかになった。自然学、政治学、数学などがその例である。それでは、この世界の一切の存在事物に関わる学問的認識は果たして存在しうるだろうか。アリストテレスはこの問題を模索し続け、すべての「存在」に関わる普遍的な学問のことを「第一哲学」と呼んで区別した。第一哲学は、「あるといわれるかぎりのことどもすべてについて、それらがあるといわれることを成り立たせている第一の原理、原因、要素を探求する学問」であると規定され、個別の学問に優先される。この世界の存在に関わる知識であるため、アリストテレスはこれを「神に関わる知恵」として「神学」とも呼んでいる。また、「第一哲学」は今日「形而上学」と呼ばれており、これはアリストテレスの著作を編纂する過程で存在に関する一群の論文が一括して自然学の後に置かれたためであると言われている。「形而上学」すなわちMetaphysicsとは、Meta(後ろ)・physics(自然学)と分解され、字義に従えば「自然学の後なるもの」という意味である。
アリストテレスの形而上学は、プラトンのイデア論批判から始まる。プラトンは全ての物事の実体をイデアとして現実世界から分離し、現実世界をイデアを分有する不完全なものとして描いた。「机」や「犬」や「りんご」など諸事象の普遍概念すなわち実体は「机のイデア」、「犬のイデア」、「りんごのイデア」として天上界に設定される。これに対してアリストテレスは、普遍概念が現実界の個物から離れて存在するとは考えない。アリストテレスは様々な点からイデア論を批判したが、とりわけイデア論による現象説明の有効性に疑問を呈する。
イデアはあくまで理念的な存在でしかなく、現実世界に存在しない以上探求することができない。また探求したところで現象界における生成、消滅、変化、運動に何らの説明を与えることもない。その性質上イデアはそもそも存在するかどうか実証することができず、実証できないため探求することもできない。また仮に存在したとして、現実世界の諸事象の説明に役立たない以上探求するだけ無駄ではないか。これが、アリストテレスがイデア論にくだしたおおよその判断だと思われる。
アリストテレスのイデア論批判は、普遍概念が現実世界の個物を離れて存在すると仮定することから生じる学問的探求の困難に対するものであった。それゆえ、アリストテレスは普遍的概念は個物に内在すると考えた。これはすなわち、現実世界に存在する個物を実体として捉えるということである。それゆえ、アリストテレスの形而上学とは現実世界に存在する実体とは何かを問う、実体論であると言える。アリストテレスは実体存在を4つの原因から成り立っているとする。4つの原因とは、(1)質料因、(2)形相因、(3)始動因、(4)目的因である。
(1)質料因とは、存在事物の元になるものである。どのような対象も質料から成り立っている。机における「木材」などがこれにあたる。事物における形而上学的な「材料」のことだと理解できる。
(2)形相因とは、存在事物に特定の個別性を付与する「それがなんであるか」を表すものである。質料に形相が与えられることで、質料はある概念となる。例えば、「木材」が「机」になるのは、質料としての「木材」に「机の形相」が付与されるからである。
(3)始動因とは、「質料」をある個物にするために必要となる運動を行う要因のことである。「木材」を「机」に形作る大工などがそれにあたる。
(4)目的因とは、個物が存在する理由となるものである。全ての個物にはそれそのものの本質とともに、それが存在する理由がある。「机」の場合、「物を置くため」や「食事をするため」といった机の存在目的がそれである。
「形相」という概念はプラトンのイデアに近い概念ではあるが、アリストテレスの場合、それはあくまで現実世界の個物に内在していると考える。また、形相はイデア的な意味での実体ではなく、形相のみで存在していることはありえず、個物の中に内在することではじめてその性質を発揮するものである。とはいえ、結局はアリストテレスも形相にイデアと似通った性質を与えざるを得なかった。すなわち、形相は普遍的であるとともに物事の本質をなし、永遠不変である。この形相をめぐる普遍の解釈の揺らぎは、後に中世において「実体は個物か普遍か」という普遍論争を引き起こすことになる。
アリストテレスが存在事物の成立を技術的制作に近いものと捉えたことからもわかる通り、彼の形而上学は極めて目的論的である。あらゆる存在事物は、質料と形相が始動因と目的因という力によって運動変化することで成り立っているのである。この過程をアリストテレスは「可能態―現実態」として説明した。
質料因はそれだけでは現実的な存在とはなり得ない。それは「何かの働きを受けることによって何かになりうる可能性をもつ」だけである。形相にしても、形相それ自体は質料と結びつかなければ実体たり得ない存在であるため、これもまた「何かになり得る可能性として存在している」ものと言える。このような具体的な個物となる以前の状態のものを「可能態」と呼ぶ。「現実態」とは、形相が質料を伴って個物としてその本質を発揮した状態のことである。このように、存在事物は「可能態」から「現実態」への運動によって説明できるとアリストテレスは考えた。
「可能態―現実態」論は、すなわち存在を原因と結果の因果関係によって捉えたものであると言える。存在が因果関係から成り立っているとするならば、現実世界におけるあらゆる運動変化の引き金を引いた「一なる原因」を必要とすることがわかるだろうか。なぜなら、ある地点からある地点への目的性を持った存在論的な移動が因果関係の本質であるが、この因果関係の連鎖が無限に続くとするならば、この目的が否定され、世界はその有意味性を失ってしまうからである。
あらゆる行為にはなんらかの目的のもとに行われる。例えば、勉強はいい大学に入るため、いい大学に入るのは仕事につくため、いい仕事は生活の安定のため、生活の安定は子供の養育のため、というように。行為の目的はどこまでも遡ることができるが、そこに終局がないとすれば、全ての目的は目的たる意味を失ってしまうだろう。
万物一切の行為をつかさどる目的があるとすれば、それは自己以外に一切の目的性を持たない。自らは動くことなく他の一切を動かしている「究極原因」である。アリストテレスはこれを世界一切の根拠であると考えた。あらゆる行為を引き起こしている第一の目的、これが「不動の動者」呼ばれるアリストテレスの神である。世界に目的性をもたらすものとしての「神」は、その後キリスト教的思想と結びつき、およそ2000年にわたり西洋思想を支配するようになった。
倫理学
アリストテレスの倫理学は、プラトンのそれと比べて著しく現実的である。プラトンは倫理学分野においても善のイデアといった超越的原理からの絶対的知を求めた。世俗的な常識や規範などは信じるに値しないものとして切り捨て、極端な道徳思想を説くこともしばしばであった。一方アリストテレスは、道徳倫理に関する学問分野では絶対確実な知識を追求するべきではないとした。倫理学が人々の行為に関わる学問領域である以上、数学のように厳密な正確さを当てはめることは難しい。数学者が数学的論証に用いる数字の正確さと、歴史家が年代を考える際に用いる数字の正確さは全く異なるのと同じことである。それゆえアリストテレスは、この分野ではおおよその事柄を世俗的な常識や規範と照らし合わせながらおおよそにおいて妥当するだろう結論で満足するべきとした。論証の構造分析から、定義命題によって学問には領域性が生じることをアリストテレスは明らかにしたが、それと同じように学問分野によって求められるべき尺度も異なるのである。
それでは人間が追求するべき最高の善とは何か。アリストテレスはこの問いに対して、それは「幸福」であると答えている。これはほとんどの人の意見に一致するだろう。しかし、では一体どういう状態が「幸福」だと言えるのか。これに関しては様々な見解がある。ある人にとっては快楽、ある人にとっては富、ある人にとっては権力、というように。しかし、これらは人間存在に外在する要素であって、主観性を排除できない。人によっては富を持つことで不幸になることもあるだろうし、一方で富を持たずして幸福な人というのも存在しうるだろう。それゆえアリストテレスは、真の幸福とは人間本性に根ざした内的な善性に基づいたものである必要があると考えた。
それでは人間本性に根ざした内的な幸福とは何か。アリストテレスはここでも目的論を導入する。具体例を先に提示すると、音楽家にとっては音楽を奏でている瞬間が最も幸福であり、船乗りにとっては船を自由に操っている瞬間が最も幸福である。それは、それぞれの職業の存在理由たる本性に従った活動を行っているからである。同じように、人間にとっての最高善とは、人間としての本性を存分に発揮することである。そして、アリストテレスは人間に備わる本性的機能として、知性的徳と倫理的徳を挙げた。
知性的徳とは、すなわち思考能力のことである。思考する能力は人間に本性的に備わっているものであり、それは人間を他の動物と区別する種差でもある。それゆえ人間は、自分自身に備わる思考能力を存分に発揮することによって真に自足的な幸福を得ることができるのである。これは、プラトンから伝統する知識を追求する生き方を指すものであり、すなわち「哲学者の生活」であると言える。知識の追求は、富や名声や権力などの外的な要素と結びつくものでなく、人間本性から見て極めて自己目的な行為である。それゆえ、知識探求的な生活は知性的徳の観点から最高の善なのである。
一方で、アリストテレスは人間の最高善をこのような知性探求的生活に限定しなかった。なぜなら、人間は理性の動物であるとともに「ポリス的動物」だからである。人間は集団の中で他者との関わりによって生活している。このような社会的次元における善が、すなわち倫理的徳である。アリストテレスが倫理学について述べた著作『二コマコス倫理学』の大半の部分はこの倫理的徳の分析に費やされており、アリストテレスは超越的な善よりもむしろ実際生活における幸福について大きな関心を向けていたことがわかる。
倫理的徳において重要な位置を占める概念が「習慣」と「中庸」である。まずは習慣についてであるが、アリストテレスは対人関係において要請される諸要素が習慣化された状態を徳と呼んだ。アリストテレスは対人関係において求められる素質として例えば勇敢、節制、寛容、豪壮などを挙げているが、これらの素質は一度発揮されるだけでは不十分である。一度や二度勇敢な振る舞いをしたからといってその人に勇敢さが備わっているとは言えない。何度も繰り返し勇敢に振舞うことで、その人は勇敢な人と呼べるようになり、勇敢さという徳を獲得するのである。このように、倫理的徳は習慣づけられることで初めて獲得することができ、またひとたび形成された徳はさらに倫理的な行動を生み出す源泉となるのである。
また、アリストテレスは行為の徳は過剰でもなく不足でもない「中庸」によって保たれると考えた。勇敢さという徳も、行き過ぎれば無謀となる。同様に、節制も行き過ぎれば無感覚に、寛容も行き過ぎれば放漫に、豪壮も行き過ぎれば粗放になる。したがって、人々は自らの思慮を用いてちょうどよい塩梅を選び取る必要がある。以上のことから、アリストテレスにとっての道徳的徳とは「中庸な徳」を「習慣づける」ことであると言える。プラトンのそれと比べるといささか迫力に欠ける議論ではあるが、それゆえに極めて現実に即した倫理観だろう。アリストテレスは倫理学を「若い人にふさわしい分野ではない」と言っているが、彼の議論を見るとそれも納得できるというものである。
参考文献)
プラトン (1998) 『ソクラテスの弁明・クリトン』 三島輝夫・田中享英訳,講談社
プラトン (1999) 『国家(上)』 藤沢令夫訳,岩波書店
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内山勝利編 (1996) 『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅰ分冊』 岩波書店
内山勝利編 (1997) 『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅱ分冊』 岩波書店
内山勝利編 (1997) 『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅲ分冊』 岩波書店
内山勝利編 (1998) 『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅳ分冊』 岩波書店
納冨信留 (2017) 『哲学の誕生 ソクラテスとは何者か』 筑摩書房
八木雄二 (2016) 『哲学の始原 ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』 春秋社
永井均 (2016) 『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』 筑摩書房
加藤信朗 (1996) 『ギリシア哲学史』 東京大学出版会
日下部吉信 (2012) 『アリストテレス講義・6講』 晃洋書房
日下部吉信 (2012) 『初期ギリシア哲学講義・8講』 晃洋書房
ポール・スーザン (1997) 『90分でわかるプラトン』 浅見昇吾訳,青山出版社
ペーター・クンツマン,フランツ=ペーター・ブルカート,フランツ・ヴィートマン,アクセル・ヴァイス (2010) 『カラー図解 哲学辞典』 忽那敬三訳,井立出版