大陸合理論とその実体論について

16世紀ごろに大陸ヨーロッパで発展した哲学のことを一般に「大陸合理論」と呼ぶが、この語訳は誤解を生みやすい。日本語で「合理的」というと「無駄なく能率的に進めること」といった機械的で冷徹な概念を連想しやすいが、この場合の「合理」はそれとは異なる。合理主義のことを英語では「rationalism」と呼ぶが、「ratio」はラテン語で「理性」を指す言葉である。つまり「合理主義」とは「理性主義」の言い換えであり、理性を用いて理に合った方法を取る立場ということになる。さらにいえば、学問の領域において「合理的方法」とは数学的論証を指すことが多い。数学的論証とは、ある定義から出発してそこから必然的に導き出されるものを真とする、いわゆる演繹的方法のことである。さしあたりは、数学の証明のような形式で議論する方法だと把握すればよいだろう。

合理論が立脚する数学的論証方法において最も重要なことは、議論の前提となる定義の正しさである。定義が偽であればそこから導き出される議論の全ても偽であるゆえに、定義の正しさは合理論において生命線である。

大陸合理論が近代哲学の始まりだと言われるのは、議論の発端である定義の設定がそれ以前とは決定的に異なっているからだ。大陸合理論以前の哲学では、「神」が無条件に第一原理として与えられていた。これは、中世のヨーロッパではその大部分においてキリスト教の教会権力が絶対的な権威を持っており、哲学もその影響を受けざるを得なかったからである。

近代哲学は、デカルトがこの伝統的慣習を退けたことから始まった。デカルトはこれまで所与のものだと考えられてきた「神」の存在を一旦は疑い、「考える私」を発見した。そして「私」の存在こそが、あらゆる思考の発端なのである。「私」を前提とする論証は中英哲学からの脱却を意味し、哲学を飛躍的に発展させた。この思考の転回こそがデカルトを「近代哲学の祖」たらしめているのである。

さてこの記事では、近代哲学の始まりともいえる大陸合理論を代表するデカルト・スピノザ・ライプニッツの実体論を見ていこう。

ルネ・デカルト (1596 ~ 1650)

方法

デカルトの生きた時代、宗教改革やルネサンスなど世界史における大事件が巻き起こる中、学問領域において数学が大きな思想的潮流となっていた。デカルトも、元々は数学者だった。彼とほぼ同時代の知識人として、ヨハネスケプラーやガリレオ・ガリレイが挙げられるが、この二人はいずれも数学的手法を用いて革新的な思想を打ち出した人である。当時数学とそれに基礎づけられた自然科学は西洋世界に飛躍的な学問的・技術的発展をもたらしており、数学は当時において時代を牽引する最先端の学問だったのである。いずれ数学に対しての懐疑から哲学者となるデカルトは、こうしたトレンドの中に身を置いていた。

デカルトの哲学における功績は、哲学的思考の出発点を主観的意識に設定し直したことにある。「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、思想史におけるこの転回を端的に表している。デカルトがこの発想にたどり着いた方法こそ、自らの依拠する数学への「懐疑」であった。そしてそれが「新たな学」の構築へと繋がったのである。では、何がデカルトを「懐疑」へ向かわせたのか。その動機となったのは古代ローマ期の哲学の一派、ピュロン主義哲学だと言われている。ピュロン主義とは、すなわち懐疑主義のことである。

懐疑主義者たちは存在と現象、現象と思考を明確に区別し、感覚的な一切の物事を疑う。ルネサンス期を代表するフランスの哲学者モンテーニュが懐疑主義の目を持っていたことから、古代ローマのピュロン主義者からの挑戦は当時のフランスに大きな影響を与えていたのだろう。懐疑主義者たちは、数学の公理系を「独断論者が合意によって採用したものにすぎない」と指摘する。数学的証明で用いられる第一原理は「直感」によって与えられるものであると先ほどは述べたが、この「直感」が確実を持つ根拠は実際のところ存在しない。数学者たちが論証の出発点そしている第一原理は、多くの数学者が「合意」しているから採用されているだけであって、絶対確実なものではないのである。

数学そのものの前提を揺るがす懐疑主義からのこの挑戦に立ち向かうためには、数学者は数学者のままではいられない。そこでデカルトは哲学者になったのである。数学的論証の復権のために哲学者デカルトが始めに行った手続きは、「自らが持つすべての見解の転覆」だった。

感覚は常に我々を欺く。かといって2と3を足せば5になるという合理的な命題すら、「欺く神」が人間をだましているのかもしれない。そもそも、我々が生きていると思っているこの世界すら、夢の中の出来事かもしれない。この世界が限りなく現実的な夢でしかないとして、誰がそれを否定できるだろうか。

そして疑いうるもの全てを疑った果てに見出したのが、主観の自己意識だった。「疑う私」の発見である。例え万物一切が虚実であるとしても、何者かが何かを疑っているという事実だけは覆すことができない。懐疑という活動は、自我が存在しなければ成り立たない。懐疑論者も、この主張を覆すことはできない。なぜなら、何かを偽とみなす根拠は真でなければならず、全てが偽であるとすることはできないからだ。つまりこの場合、世界全てを偽とする根拠としての「私」は真でなければならない。懐疑論が陥るパラドクスである。こうして、「我思う、ゆえに我あり」、いわゆる「コギトの命題」がデカルト哲学の第一原理に据えられた。

実体について

「コギト命題」から出発し、デカルトは無限実体である神、有限実体である精神、延長する実体である物体の3つの実体を設定する。有限実体である精神、つまりは「私」の存在は先ほど示された。残る2つの実体について見てみよう。

物体

デカルトは「思考するもの」である「私」が存在することから、物体の正体を突き止めようとした。物体の存在を明らかにするうえでデカルトが念頭に置いたのは、「私」は物体をどのように認識するのかという問いである。

視覚や聴覚などの感覚器官からもたらされる情報を信じることはできない。なぜなら、色、におい、形、味などは絶えず変化するからである。ひとかけらの角砂糖は、熱せば形を変えるし色も変わる。においや味も他の刺激によって変わり得るだろう。そもそも、同じ事物に対しての知覚の仕方は、動物によって異なる。コウモリは超音波によって世界を把握するし、ヘビは赤外線を認識する。人間同士に置き換えても、色覚や聴覚に微妙な差はおそらくはあるだろう。

感覚は、物質の存在を保証しない。だが、たとえ感覚的な一切の刺激がなくなったとしても、ものがそこにあることに変わりはない。人や動物が知覚をしようがしまいが物体が物体として存在することを否定できないだろう。例えば、全ての感覚がなかったとしても、歩いていて壁にぶつかればそれ以上進むことはできなくなる。感覚がなくなったからと言って物体が存在しなくなるということはありえない。物体は感覚的認識を超えて存在しているのである。

物体は確かに存在する。しかし、感覚的認識はその物体の本性とは言えない。そこでデカルトは、感覚的性質の一切を捨象し、数学的に把握できる情報のみが物体の本性であると考えた。大きさ・数・場所・時間などがそれにあたり、これらは数学的に処理することができるがゆえに合理的である。つまり、物体とは、その本性において空間的な「延長」であり、究極的には「量」として捉えることができる「延長する実体」である。

デカルトは一切を疑ったが、しかし絶対的な神の観念を捨てることはなかった。デカルトによる神の存在論的証明は、「何ものも無からは生じない」という因果律による証明である。「私」は存在する。そして、「私」とは「思考する意識」である。そして、「神の観念」は私たちに生得的に備わっている。私たちに生得的に備わっている観念をデカルトは「本有観念」と呼ぶが、それでは本有観念である「神の観念」を私たちに植え付けた原因とは一体なんであるか。私自身が私の意識の原因ではない。なぜなら、有限な存在である「私」が無限な存在である「神」の原因になることはありえないからである。また、物体は私自身の観念によって把握される、いわば私より下位の存在であるため物体も「神」の原因ではない。よって、私の意識を凌駕する存在である「神」は存在するのである。

この主張を支えているのは、原因は結果より常に多くの存在を含んでおり、有限である私の観念は無限の存在である「神」というより上位の実体以外からは生じ得ないという議論である。デカルトの神は万物一切の上位に存在する「無限、全知、全能な実体」であり、全ての存在の原因である。

心身二元論とその問題

デカルトの実体の区別は、後世にある哲学的問題を残した。「精神」と「物体」がどのようにして成り立っているのかを問題にする心身二元問題である。先ほど見た通り、全ての原因である神を別にすれば、世界に存在するのは「精神」と「物体」という2つの完全に分離した実体である。存在論的に2つの実体は区別される以上、それらは相容れない。しかし、現実に人間は精神とともに延長する実体である肉体を所有している。それでは、人間存在について「精神」と「物体」は一体どのように結合しているのだろうか。

デカルトはこの疑問に対して明確な回答を打ち出すことができなかった。精神と肉体の結合に関する心身問題はスピノザやライプニッツなど、後の哲学者たちに引き継がれていった。

デカルトと近代

「良識はこの世で最も公平に配分されているものである。……すなわち、よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力、これが本来良識または理性と名づけられるものだが、これはすべての人において生まれつき相等しい」

「よい精神をもつというだけでは十分ではないのであって、たいせつなことは精神をよく用いることである」

『方法序説』 第一部

以上見てきたように、デカルトは「思考する実体」である私の原因は神であると断言した。「思考する実体」が神から発生したものである以上、思考する能力はすべての人に公平に分配されているはずである。ここから、「平等」と「自己責任」という緊張関係にある2つの概念を見て取ることができる。これら2つは近代社会に特有の価値観であり、それゆえ『方法序説』は近代思想の幕を開いた古典なのである。あらゆる伝統や常識から絶対性が失われていった当時のヨーロッパにおいて、「私」だけを確からしいものとみなすデカルトの思想は、あるいは歴史の必然だったのかもしれない。

バールーフ・ザ・スピノザ (1632 ~ 1677)

実体について

スピノザは、デカルトの思考を踏襲しながらも全く異なる独特な実体論を展開した。スピノザの形而上学では、デカルトのそれとは異なり実体は神のみである。この世界には唯一の実体である神以外に存在せず、私たちが認識することのできる「精神」と「延長」は神が持つ無限の属性のうちの2つに過ぎない。「神即自然」で知られるこの命題は汎神論として知られており、後に汎神論争を巻き起こすことになった。

それでは、そもそも「実体」と「属性」とは何だろうか。まず「実体」とは、「その概念をかたちづくるのに他の概念を必要としないもの」、言い換えるなら、「存在するために他のなにも必要としないもの」である。また「属性」とは、知性が実体の本質として認識するものである。つまり、実体の本性を構成している要素が属性である。例えばデカルトにおいて、「精神」は実体であり、「精神」の属性は「思考すること」である。同じように、実体である「物体」の属性は「延長をもつこと」である。

スピノザは「その概念をかたちづくるのに他の概念を必要としないもの」という実体の定義をデカルト以上に徹底的に適用し、世界に存在する実体は神のみであるとした。定義を厳密に受け止めるならば、「実体」は単一であるはずだ。なぜなら、全ての結果はそれ以上遡ることのできない唯一の原因に帰結するからである。よって、「実体」は無限な存在である神以外に存在せず、それゆえ全ての「属性」は神に帰属している。神は「絶対的に無限な存在者」であり、無限の属性から成っている。

神は唯一の実体であり、すべては神の無限の属性の一部に過ぎない。神が持つ無限の属性の内、人間が認識できるのは「思考」と「延長」の2つだけである。「延長」とはすなわちこの世界そのもののことであるが、これは私たち(=「精神」)とは別個の神の属性である。私たちから見てこの世界すなわち「自然」は、唯一の実体である神を示す属性の一つであるから、私たちは自然を通してのみ唯一実体の神を認識することができる。それゆえ、私たちは唯一の実体を「神、あるいは自然と呼ぶ」のである。自然は神自身の属性であるとともに神が生み出したものである。スピノザはこれを「能産的自然」と「所産的自然」と呼んで区別した。「能産的自然」とは神という実体を指し、「所産的自然」とは神の属性を指すが、いずれにせよ存在するものは神のみである。またこの区別は、私たち自身にも当てはまるものと考えられる。

心身平行論

さて、デカルト哲学において問題となっていた心身問題であるが、スピノザの場合その問題は当てはまらない。スピノザの形而上学においては、精神と肉体すなわち「思考」と「延長」はともに実体ではないからだ。「思考」と「延長」は神という原因のもとで一元的に理解される。ところで、あらゆる結果は神という唯一の無限実体から生じているとすれば、「自然のうちには偶然的なものはなく、いっさいは、一定のしかたで存在し作用するように、神の必然性によって決定されている」ことになる。つまり、世界の事象の一切は単一の原因から生じているがゆえに、そうあることはすべて決まっているのである。これが、スピノザ的一元世界の決定論である。

スピノザは人間の自由意思を認めない。ゆえに、精神と肉体の結合はそもそも問題にならない。なぜなら、精神の動きと肉体の動きはそうなるように初めから決まっているからである。精神と物体は互いに独立してはいるが、それらの動きは同一の原因である神から生じる結果が異なる2つの属性で表現されているに過ぎないのである。精神と肉体という2つの次元の運動が同時並行的に行われているというこの議論は、それゆえ心身平行論と呼ばれている。

神の人格と目的の否定

スピノザの神論は、伝統的な宗教観とは相容れなかったゆえに大きな反発を招いた。とくにキリスト教カルヴァン派からの反発は激しく、主著『エチカ』は出版される以前に発禁処分となっている。

伝統的なキリスト教の神は、何らかの目的を持って世界を創造した存在である。一方スピノザの神は、目的を持たない。なぜなら、「神が目的を持つ」とすると神は有限の存在になってしまうからだ。目的を持つということは、すなわち目的を持つ存在の外部になんらかのものが存在するということであり、それは神の無限性を否定することになる。唯一の無限実体である神の外部に何かが存在するということはあり得ない。神は、絶対無限でなければならない。

スピノザの神=世界は、目的を持たない。目的を持たないがゆえに、世界はなんらの意味を持たない。ただ、無限に存在するだけである。この世界観は決定論的というよりむしろ機械論的ですらある。その過激さゆえに、スピノザの思想は哲学史の表舞台からしばらく姿を消すことになったのである。

当時にあっては弾圧されたスピノザの思想は、後のドイツ観念論に影響を与えることになるが、近年においても再評価の動きがある。スピノザの思想は、合理的であってもデカルトにみられるような人間中心的ではない。また、特定の宗派性や文明の進歩史観を持つものでもない。スピノザの一元世界では、全ての人間や自然は神の属性にすぎないという点で根源的に平等である。宗教や文化の差が様々な衝突を引き起こす現代において、彼の思想が再評価されることは必然なのである。スピノザが生きた17世紀もまた、世界が拡張したことによる問題が噴出し始めた時代であった。汎神論的思想のゆえにキリスト教からも、またユダヤ人でありながらユダヤ教からも異端とされたスピノザは、私たちと同じ類の問題意識を抱えていたのだろうか。

ゴットフリート・ライプニッツ (1646 ~ 1716)

実体について

ライプニッツもまた、デカルトやスピノザと同じように実体についての考察を行った人でらる。世界を構成している実体とは何か。これに対してデカルトは精神と物体の二元論を構築した。スピノザは、世界は唯一の実体である神から生じているとする一元論を唱えた。続くライプニッツが唱えた学説は、実体は無数に存在するという多元論である。ライプニッツは「モナド(単子)」という実体が世界を構成する最小の実体だと述べる。「モナド」は現代科学でいうところの「原子」に近い存在ではあるが、原子とは全く異なる性質を持った形而上学的物質である。世界は無数に存在する実体から成り立っているとする彼の哲学は、全体を概観することは容易いが、そこに至るまでの道筋はデカルトやスピノザに比べて著しく複雑である。「モナド」についてまずは見てみよう。

「モナド(単子)」とは、延長を持たない非物質的な存在で、単一にして不可分、生成変化もしない永遠的な実体である。またモナドは他のモナドと関連してはいるが、相互に影響を与え合わずに独立的である。無限に多くのモナドは全てそれ自体として区別され、相互に識別可能である。つまり、一つとして全く同じモナドは存在しない。さらに、それぞれのモナドはそれ自身のうちに他の全てのモナドとの差異を宿している。これはすなわち、無数に存在するモナド一つ一つが自身以外の全てのモナドの情報を内包しているということであり、単一のモナドが全世界を凝縮しているに等しい。ライプニッツは全体を個のうちに含むというモナドのこのあり方を「表象」と呼ぶ。自身の状態をより完全なものにしようとする「欲求」を持つこともまたモナドの性質の一つである。モナドは「欲求」に従ってある状態から他の状態へと断続的に運動している。

整理しよう。モナドとは、このような性質を持った実体である。①無数に存在し、物質ではない。②相互独立的であり、一つとして同じものはない。③個々のモナドは全てのモナドの情報を持つことにより世界全体を「表象」している。④「欲求」に従って絶えず運動している。⑤集合や拡散によってこの世界を構成している。

モナドは以上のような性質を持つが、これはなんとも奇怪で摩訶不思議な存在だろうか。合理哲学の一方の極限だと言えるのではないだろうか。20世紀を代表する数学の天才バートランド・ラッセルはライプニッツを「最高の頭脳」であると評したと言われているが、彼の形而上学はまさしく天才の思考が産み落としたものにふさわしい。彼がモナドにたどり着くまでにたどった難解な思考の道筋を記述することを残念ながら僕はできない。なので、ここではモナドについてはこれ以上踏み込まず、モナドを調和するライプニッツの神について見てみよう。

機械仕掛けの神

ライプニッツの神は、相互独立的な無数のモナドを統制する存在である。神はすべてのモナドが互いに同調して現在の世界を構成するように、いわばモナドのプログラムを永久に確定したのである。神は、モナド溢れる世界に完璧な調整がなされたシステムを導入した。全てのモナドはこのシステムに従って運動するため、世界の一切は必然的である。つまり、全ての出来事は神による「予定調和」なのである。全ては神が定めたシステムの通りに動く、その意味で、ライプニッツの神は機械仕掛けの神である。内部に予め組み込まれた歯車の体系によって機械が作動するように、世界もまた、内部に組み込まれたシステムに従って動いている。

また、この世界は神が必然的に選び出した最善のものである。ライプニッツの神は、最善の世界を無数の可能世界から選び出して適用した。なぜなら、神は至高の存在者であり、常に最善のものを欲するからである。神は最善の原理に従って、あらゆる可能性の中からただ一つこの世界だけを創造し、存続させている。ここにはスピノザで見られたような決定論を見て取ることができるが、スピノザよりはるかに楽観的な世界解釈だと言える。『弁神論』の中でライプニッツは、この世界に存在する「悪」はより大きな善を引き立てるためのものであると述べる。20世紀に起こった悲惨な戦争のことを思えば、全てが「予定調和」であるというこの楽観論をそのまま受け入れることはできない。だが、ライプニッツがこの思想を生み出した当時のドイツは、相次ぐ戦乱によって混乱のただなかにあったことは記憶に留めておくべきである。

参考文献)

熊野純彦 (2009) 『西洋哲学史 近代から現代へ』 岩波書店
ペーター・クンツマン,フランツ=ペーター・ブルカート,フランツ・ヴィートマン,アクセル・ヴァイス (2010) 『カラー図解 哲学辞典』 忽那敬三訳,井立出版

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