カントと墓標の倫理学 人はなぜ自ら考えるべきなのか

一般的に、自分で考えることは大切だと言われている。しかし、なぜ人は自分で考えなければならないのだろうか。考えることは時に苦しい。そもそも考えたところで結論の出ない問いはこの世界に山ほど転がっている。そんな問いを考えることは労力の無駄であり負担になるだけだ。

だったら、日々をできるだけ何も考えずただ流れに従って生きる方がずっといい。そのほうがずっと楽だし、何より社会はそういう風に回っているものだ。何も考えずに現状を受け入れ、日々を粛々とこなすことがすなわち正しい生き方なのである。考えずにいられるならば考えないに越したことはないのだ。そのほうがずっと幸せではないか。

人間は考えるものである。しかし、考えることによって時に苦悩する。では、人間はなぜ考えるのだろうか。そもそも考えるとはどういうことなのだろうか。「考えること」すなわち人間の理性について、おそらく人類の中で最も考え抜いた哲学者がいる。それが、18世紀の哲学者、イマヌエル・カントである。カントの哲学は難解だとされるが、しかし彼の問いは極めてシンプルに要約できる。まとめるならばそれは、「考えるとはどういうことか、そして人間はなぜ考えるべきなのか」というものである。

「敢えて賢かれ!自らの悟性を用いる勇気をもて!」

カント 『啓蒙とは何か』

これは「啓蒙とは何か」という論文の冒頭に登場するものであるが、この言葉こそカントが生涯をかけて導き出した結論である。意味するところは要するに、「自分で考えろ!」ということだ。この言葉から読み取れることはいくつかあるが、特筆するべきは、「敢えて」と「勇気をもて」という部分だろう。つまり、「考えること」は「敢えて」「勇気をもって」、それでも行われるべきものだということだ。ここに、先ほど述べた「考える」ことがもつ葛藤を見て取ることができる。「考えること」について考え抜いた哲学者ですら、考えることには勇気が必要であると明言しているのである。

本記事の目的は、カントに即して「たとえ苦悩するとしても、それでも人間は考え続けるべきである」ことを主張することだ。考えることをしない人間はいない。逆に言うと、僕たちは考えることから逃れられない。しばしば考えることは僕たちにとてつもなく大きな苦悩をもたらす。それでも、人間は考えることをやめるべきではないのである。

本記事は主に3章からなっている。この3章はそれぞれカントの著作である「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「永遠平和のために」に大まかに対応している。それでは、カントの思考を辿りながらなぜ人間は考え続けるべきなのかについて見ていこう。

【純粋理性批判】

この章では、カント哲学の原理論について述べられている「純粋理性批判」を取り上げる。一般的にカントといえばこの書を連想することが多いが、それはカントが主張した様々な事柄を根拠づけている概念がこの書で扱われているからだ。あらゆる主張が「純粋理性批判」によって根拠づけられている以上、この書を差し引いたカント哲学の解読はあり得ず、またどんな入門書であってもここから始める必要がある。ところが、よく知られている通り「純粋理性批判」は屈指の難読書だ。論理展開の複雑さもさることながら、哲学史上カント以外に使ったことのない概念が多々出現し、さらにそれらの概念は多義的である。この難解さゆえに、カントに興味を持った多くの人がカント哲学の入り口で挫折し、結局「カントはやっぱり難解だった」という印象を再確認するだけに留まるのである。

確かにカントは難解だ。しかし、よくよく論理の道筋を解きほぐしてみると、その主張は意外なほど単純だったりする。「純粋理性批判」にもそれはあてはまり、要所要所で問われていることとそれに対応する結論に注意して読解していけば、大枠を掴むことくらいは十分可能である。さらに、誤解を恐れずに言えば、「純粋理性批判」そのものを読む必要もない。実際僕もカントを勉強するにあたり、「純粋理性批判」を解読することは最初からあきらめていた。ようは主張とその根拠を把握すればよいのであるから、専門の研究者でもない限りわざわざそれに取り組む必要はないのである。だから、「カントは難解で自分には理解できないものだ」という先入観を一度取り払ってこの記事を読んでみてほしい。

「純粋理性批判」の内容は本記事の目標である自分で考えることの重要さを示すことからはいささかかけ離れているように見えるかもしれない。しかし、カントから議論を拝借する以上本書を避けては通れず、割愛するわけにはいかないのである。

「純粋理性批判」とはどういうことか

この章では、「考える」とはそもそもどういうことかについて考察していく。本章を貫くキーワードは、「理性」である。理性とはすなわち考える能力のことであるから、ここではこの二つを同一のものと考えて差しさわりない。つまり「理性能力」とは「考える能力」のことである。「純粋理性批判」の議論を辿りながら、「考えること」について考えてみよう。

「純粋理性批判」というタイトルからもわかる通り、カントの哲学は「理性批判」あるいは「批判哲学」という言葉で表象することができる。しかし、そもそも「理性批判」とはどういうことだろう。「純粋理性批判」という本も、そもそもタイトルからして一体何を意味しているのか全く分からない。

結論から言うと、このタイトルは「純粋な理性を批判する本」ということを意味しているにすぎない。要するにそのままなのである。しかしこのままでは、内容云々以前にこの本がいったい何をしようとしているのか全くわからないので、まずはこのタイトルの謎を解明することから始めようと思う。

まず「理性」とは何かであるが、これにはこう答えることができる。「理性の『理』は、理由の『理』」であると。つまり、理性とは諸事象の理由を把握する能力のことである。これは英語に変えてみるとなおわかりやすい。実は、「理性」の英訳は“reason”であり、「理由」と全く同じなのである。ちなみに、「純粋理性批判」の英語での書名は”Critique of Pure Reason“であり、ここからも「理性」と「理由」の近似を読み取ることができる。

理由を把握する能力とはつまり、「根拠=原因」と「帰結=結果」の関係を認識する能力だということもできる。わかりやすく言えば、ある結果(~である)に対して「なぜならば~」とその原因を答える能力、あるいはある原因(~である)からそれに対する「だから~である」という結果を答える能力に他ならない。「理性」と言うと大仰に聞こえるが、何も特別なことではない。ここで言われている理性とは、人間が必ず備えている、「なぜ?」と問い「なぜならば」と答える能力のことなのである。

理性がどういった能力なのかはわかった。しかし、理性は理性でもただの理性ではない。本書で扱われるのは「純粋」な理性である。「純粋」とは「まじりけのないこと」であるから、「純粋な理性」とはすなわち「まじりけのない理性」ということになる。さて、ここで問題になるのは、では理性にとって「まじりけ」とは一体何であるかということだ。説明するとこのようになる。理性の働きは自分の頭の中で完結する営みであり、理性の働きが自身の外部に作用することはありえない。「動け!」といくら考えたところで、触れることなく目の前のスマホを動かすことはできない。この「自分自身の内部で完結する理性の働き」を極限まで「まじりけのないもの」にするには、「理性の直接の作用以外から得られたもの」を捨て去る以外にない。

「理性の直接の作用以外から得られたもの」とは、要するに自分の外部の全ての事象のことだ。例えば、「手を離すと物は落ちる」や「りんごは赤い」などである。つまり、ここで言う「まじりけ」とは「自分が経験したこと、経験できること全て」を指している。これがどういうことかというと、経験可能な物質世界の概念全ては「純粋な理性」の対象ではないということだ。それでは、純粋理性は一体どのような概念を扱うのだろうか。

経験可能な物質世界に存在する以外のものなど存在しないと思われるかもしれない。しかし実は、これこそがカント以前の哲学が伝統的に主軸として扱ってきた概念なのである。すなわち「神」、「魂」、「自由」など、哲学の中でも形而上学と呼ばれる分野がそれだ。これらはいくらこの世界を探し回っても見つけることはできない。人体を解剖しても「魂」は存在しないし、例え世界の果てまで行ったとしてもおそらく「神」なる存在と接触することはできないだろう。

しかし経験的に認識することができないからこそ、人はこのような超越的な概念を追求してしまう。なぜなら、経験可能な世界は移ろいやすく、人が生きていく上での絶対的な指針にはなり得ないからだ。だからこそ、理性の働きによってのみとらえることができる形而上学的概念に普遍的な真理が潜んでいると人々は考え、その本質を探り当てようとしてきたのである。

以上の議論をまとめると、「純粋な理性」とは「『神』・『魂』・『自由』などの形而上学的概念を根拠づける能力」のことであると言える。そして、この能力を「批判する」ことこそ、「純粋理性批判」のテーマなのである。ここで注意が必要なのは、カントが批判するのは伝統的な形而上学における個別の議論ではないということだ。カントが目を向けるのは哲学者たちが個別に唱えてきた主張ではなく、「能力そのもの」すなわち議論が前提としてきた基盤的な部分である。

具体例を挙げて説明するならば、星々は地球を中心に回っているという前提の下に成り立っていた天文学について、実は地球の方が回っているのではないかと主張するということである。この主張は、これまで築きあげられてきた天文学的知識体系全てを覆すことになるかもしれない。カントが形而上学において目指したことも、おおよそこのようなことなのだ。これに関する詳細な解説は次節で行われることになるが、ひとまずカントの目標は従来の議論の根本的な部分を批判するという点にあるということだけ把握しておこう。

ところで、批判するからには純粋理性は何かしらの問題を抱えているということになる。そして、問題を提起した以上その問題を解決するための新しい枠組みを提示することも必要になる。以上、本節で行われた議論を総合すると、「純粋理性批判」とはすなわち、「『神』・『魂』・『自由』などの形而上学的概念を根拠づける能力の問題点を示し、その問題を解決できる新たな枠組みを提示する」ことを目指して書かれた本であることがわかる。ここでやっと、僕たちは「純粋理性批判」が何を意味するかを解明することができたのではないだろうか。それでは、本書を貫くテーマが明らかになったところで、いよいよ本論へ入っていこう。

アンチノミー論 理性は信頼できるのか

純粋理性批判は、以下の言葉をもって始まる。

「人間の理性は、ある種の認識について特殊の運命を担っている。即ち理性が退けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である」

カント 『純粋理性批判』

人間理性はある問題について悩まされるという運命を担っている。これはつまり、ここが本書のポイントになるので繰り返すが、「『神』・『魂』・『自由』などの形而上学的概念を根拠づける能力には問題がある」ということだ。ここで言う「問題」とは、「合理的に物事を判断する能力であるはずの理性が、推論を進めれば進めるほど逆に不合理に陥る」ということである。理性が自らの能力を発揮することで、最終的に理性的ではない結論に到達してしまうという皮肉なパラドクスである。

哲学者にとってこのパラドクスは哲学者としての存在意義に関わる切迫した問題である。なぜなら、哲学者たちはまさに理性の力によって合理的で正しい真理を追究しているのであり、もし理性の力そのものが確かではないとしたら、理性によって導き出される結論も全て誤りということになるからだ。また理性は人間が持つ普遍的な能力であるがゆえに、この問題は哲学者だけに留まるものではない。後に詳しく述べることになるが、人間に普遍的に備わっている能力である理性自身に欠陥があるとなると、人間は本質的に「善く生きる」ことのできない動物であるという結論に達する危険性すらある。だからこそカントは、この問題を放置することを許さなかったのである。

さて、カントはこの理性特有の問題をより鮮明にするために、ある面白い方法を用いた。その方法とは、「ある二つの対立する命題について、それがどちらも正しいことを証明する」というものである。理性による推論の結果、両立しえない二つの命題がどちらも正しいということになれば、それは理性自身が矛盾をはらんでいることのなによりの証明になる。そしてその自己矛盾の原因を分析すれば、理性が自己矛盾してしまうメカニズムについて明らかになるかもしれない。カントが行ったのはそういう作業である。

アンチノミーとは 理性が陥る間違いとはどのようなものであるか

対立する二つの命題のペアを「二律背反」または「アンチノミー」と呼び、アンチノミーに関する議論こそが「純粋理性批判」の中核をなすものである。アンチノミーとは、同一の形而上学テーマに関してそれを肯定する命題と否定する命題の組み合わせのことである。肯定する命題のことを「テーゼ」といい、これは要するに「~(で)ある」と主張するものである。同様に、否定する命題のことを「アンチテーゼ」といい、これは「~(で)ない」と主張するものである。カントは伝統的な形而上学に従って、以下の4組のアンチノミーをあげる。

第一アンチノミー : 世界に果てはあるか?
【肯定命題】 世界は時間的・空間的に有限である(世界に終わりはある)
【否定命題】 世界は時間的・空間的に無限である(世界に終わりはない)

 

第二アンチノミー : 世界は何かからできているのか?
【肯定命題】 世界には最小の実体が存在する(世界は単純なものに分割できる)
【否定命題】 世界には最小の実体は存在しない(世界は単純なものに分割できない)

 

第三アンチノミー : 人間は自由なのか?
【肯定命題】 自由は存在する(自由による因果性が存在する)
【否定命題】 自由は存在しない(すべては自然法則に従って必然的に起こる)

 

第四アンチノミー : 神はいるか?
【肯定命題】 神は存在する
【否定命題】 神は存在しない

これらの命題は現実世界を超えた真理に関わるものなので、実際に検証して確かめることはできない。理性の能力を用いて間接的に推論されるしかない。しかしここに理性の落とし穴がある。

上にあげた4組のアンチノミーについて、もし肯定命題「~(で)ある」が成立するならば、否定命題「~(で)ない」は論理的には成立しない。逆もまたしかりである。なぜなら、ある一つのものが、「ある」と同時に「ない」ことは矛盾だからだ。特にカントが想定するアンチノミーの場合、どの命題も「絶対」や「極限」に関わるものであるため、肯定と否定の中間ということはありえない。したがって、もし理性が正しいのであれば、どのアンチノミーにおいても肯定命題と否定命題のどちらかが真でありどちらかが偽であると推論される必要がある。

そこで4組のアンチノミーについてそれぞれの命題を論証してみる。すると、なんとも奇怪な事態に陥るのだ。すなわち矛盾するはずの二つの命題がどちらも正しいという結論に陥ってしまうのである。

全てのアンチノミーを取り上げることはできないので、ここでは第一アンチノミーについて詳しく見てみよう。第一アンチノミーはこの世界の「時間」と「空間」をめぐる命題であった。ここでは「時間」に焦点を当ててそれぞれ論証してみる。

【肯定命題】 世界は時間的に有限である

世界が時間的に無限﹅﹅であると仮定する。その場合、時間には「終わり」や「始まり」といった断絶は存在せず、決して途切れることはないはずだ。ところが、私たちは、「今この瞬間」に存在している。これはつまり、「今この瞬間」の私を起点に時間を「過去」と「未来」に分割することができるということだ。したがって、「世界が時間的に無限である」という主張は成り立たない。ゆえに、世界は時間的に有限である。

 

【否定命題】 世界は時間的に無限である

世界が時間的に有限﹅﹅であると仮定する。その場合、この世界が始まる前に、世界が存在していない状態があるということになる。これは、この世界が存在していない間の時間が存在することを意味している。この議論は無限後退するため、「世界が時間的に有限である」という主張は成り立たない。ゆえに、世界は時間的に無限である。

※以上の議論はどちらも、真だと主張する命題の反対を想定し、その不可能性を証明するという形式が取られている。

以上により、肯定命題と否定命題がどちらも真であること、ないしは「不可能性の証明」という論証形式からどちらも偽であることが結論付けられる。これは明らかに矛盾に陥っており両命題の真理性は失われている。また、この矛盾を導いた犯人である理性にも疑いの目が向けられる。

それもそのはずで、理性は絶対に両立しない命題をどちらも真とする、いうなれば「二枚舌」なのである。しかも、この「二枚舌」は理性それ自身の性質として備わっているものであるため、なおのことたちが悪い。こうして理性それ自身に潜む病的な欠陥があらわになっていく。理性は自分自身こそ真理を探究する正当な手段であるとさも当然に嘯いているのである。実際にアンチノミーを論証してみると、理性が持つ問題点が白日の下にさらされるのである。理性批判とはどういうことか、またカントがなぜ理性批判を行わなければならなかったのか、やっとその輪郭を捉えることができ始めたのではないだろうか。

第一アンチノミーにおける理性の「二枚舌」は、さらに衝撃的な事態をもたらす。アンチノミーの内容は、「世界は空間・時間的に無限であるか、有限であるか」というものであった。ところが、これまで見てきたように、肯定命題も否定命題も共に真理性を持たない。とすると、世界は有限でも無限でもないという帰結に至らざるを得ない。世界が有限でも無限でもないということは何を意味するのか。すなわち、世界はいかなる大きさも持たず存在してすらいないということだ。

世界が有限であるか無限であるかという命題は、いずれにせよ「世界がある」ことを想定している。第一アンチノミーは、「世界があるならそれは有限か無限のどちらかである」という前提の下で成り立っているものである。「ある」ものが「ある」としたら、それは有限か無限のどちらかしかないだろう。もし有限でも無限でもないならば、「ある」ということそのものが否定され、「ない」に転じてしまうのだ。

本項では第一アンチノミーを取り上げて解説したが、他のアンチノミーについても理性は致命的な不合理を引き起こす。人間が人間であることを示す一つの指標でもある理性がいかに頼りないものかをアンチノミー論はまざまざと見せつけるのである。理性が持つ重大な欠陥についておわかりいただけただろうか。

ここまでの議論によって、理性が理性自身を否定しかねない重大な欠陥を暴き出した。抱える問題が白日の下にさらされ、理性は見るも無残な姿になり果てた。議論を先に進めるためには、まずはこの理性の力を復権させる必要がある。なぜなら理性を批判するのもまた理性であり、理性の力の再定義をしないことにはあらゆる議論は無効になるからである。理性が持つ問題は暴き出した、次は、カントがいかに理性を復権させるのかを見にいこう。

コペルニクス的転回 空間・時間という認識形式

コペルニクスをご存じだろうか。彼は天と地を逆転させたことで歴史に名を残す人物である。彼以前の人々はみな、天体は地球を中心に運動していると考えていた。天体の観測が地球上から行われる以上、自らの依拠する地球を軸にして世界を捉えようとすることは、考えてみれば極々当然のことだ。今でこそ知識として﹅﹅﹅﹅﹅地球は太陽の周りをまわってということは知られているが、主観的に「地球が高速で動いている」ということを感じることはできない。「地球は動いていない」ことは、主観的感覚からすればひどく健全なのである。コペルニクスはまさにこの主観的感覚が陥る誤謬を暴き出し、「地球の方が動いている」ことを発見した。天動説から地動説への逆転である。

カントがアンチノミーの解決のために用いた思考法は、これとほぼ同一のものである。すなわち、天と地が逆転したように、「見られる側」と「見る側」の関係を逆転させた。

「(われわれの)認識が対象に従うのでなく、むしろ対象の方がわれわれの認識に従わなければならない」

カント 『純粋理性批判』

これまで詳しく議論してきた第一アンチノミーに当てはめながらこの意味を考える。第一アンチノミーの場合、理性によって世界を説明しようとしていることから、「対象」は「世界」のことであり、「認識(能力)」は「理性」のことである。それでは「対象の方が認識に従う」とはどういうことだろうか。カントの言葉を第一アンチノミーに即して言い換えてみよう。

「理性が世界に従うのではなく、むしろ世界の方がわれわれの理性に従っているのである」

もう一度言い換える。つまり、カントにおける主観と客観の逆転とはこういうことである。

「理性は世界のありのままの姿を映し出していない。理性が捉えていることを私たちが世界のありのままの姿だと思っているだけなのである」

これがカントの「コペルニクス的転回」だ。これまで理性は世界を捉える客観的な能力だとされてきた。しかし、理性が客観的ではないことは、第一アンチノミーの議論からも明らかである。とすると、理性自体が主観的なものであり、理性固有の主観的な枠組みがあるということになる。僕たちが世界だと思っているものは、いわば理性がもともと持つフィルターを通して得られたものなのである。

例えば、色が入った眼鏡を想像してみてほしい。その眼鏡をかければ当然、世界は赤色がかって見える。色眼鏡を通して見た世界が、世界そのものの姿であるという人は誰もいないだろう。理性も、これと同じようなものなのである。

ここで問題になるのは、それでは理性はどのようなフィルターを通して世界を捉えているのかということである。カントは理性が諸事象を受容する際に発動する主観的な性質のことを「アプリオリな直感形式」と表現する。「アプリオリ」とは要するに「先天的に」ということである。「直感形式」とは「フィルター」のことだと思っておけばよいだろう。そして理性に固有のアプリオリな直感形式こそ、「時間」と「空間」に他ならない。つまり、理性は「時間」と「空間」という条件の内部でしか意味を持たない。それゆえ、「時間そのもの」「空間そのもの」を論証しようとすれば不合理に陥るのである。

簡単な思考実験をしてみよう。頭の中に、「空っぽの空間」を思い描いてみてほしい。四角形でも円形でもいい。そしてその「空っぽの空間」の中に何か物体を入れてみよう。これもただの立方体でも机でもなんでもいい。ここまでは、たぶん誰でもできるはずだ。それでは次に、「空間」を無くしてみようか。先ほど「空っぽの空間」の中に出現させた物体を、今度は空間ではないところ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅に出現させてみてほしい。「空っぽの空間」を無くすだけではだめだ。「空っぽの空間」が存在した空間も無くす必要がある。

僕は確信を持って言うが、人が人である以上、おそらく誰もできない。つまり、空間が存在しないという想定を理性は遂行することができないのである。このことから、人間は「空間」という条件なしに物事を認識できないということがわかるだろうか。時間に関しても同様の思考実験が可能なので、よければやってみてほしい。

普通、この世界は空間的・時間的広がりを持つものとされている。しかし、その結果理性は矛盾に陥った。だとすれば、どれだけ常識的な感覚から離れていようと、世界そのものは空間的・時間的ではなく、それは理性の主観でしかないと想定することは正当である。

コペルニクスは「見る地球」と「見られる惑星」の関係を逆転させた。カントは「見る理性」と「見られる世界」の関係を逆転させた。この意味で、カントの思考は正しく「コペルニクス的転回」なのである。

第一アンチノミーの解決

それでは、あらためて「空間」と「時間」という理性のアプリオリな直感形式を前提に第一アンチノミーを考え直してみよう。第一アンチノミーはこのようなものであった。

第一アンチノミー : 世界に果てはあるか?
【肯定命題】 世界は時間的・空間的に有限である(世界に終わりはある)
【否定命題】 世界は時間的・空間的に無限である(世界に終わりはない)

結論から言えば、いずれの命題も判断すること自体が無効となる。先に見た通り、時間と空間は理性の主観的な形式でしかない。つまり、世界それ自体は時間的でも空間的でもないということだ。時間的でも空間的でもないのに、「時間と空間はいったいどうなっているのか」と問うことはそれ自体無意味なのである。

それは、例えるならプラスチック製のおもちゃの野菜が「腐る」か「腐らないか」を問題にするのと構造的に同じである。そもそもおもちゃは腐らないため、問うこと自体に意味がない。にもかかわらず、あえておもちゃのプラスチックに対して「腐る」か「腐らないか」を判断するならば、いずれにせよ偽であると判定せざるをえないだろう。「世界が時間的・空間的に有限であるか、無限であるか」という問いも、世界はそもそも時間的・空間的ではないため、どちらを選んでも偽にしかならないのである。

感性と悟性

第一アンチノミーについて考察することによって、理性は空間と時間をアプリオリな直感の形式として持っていることが明らかになった。議論を次に進めるために、ここでは理性が持つ能力についてもう一度検討してみる。

カントは理性が持つ認識能力を「感性」と「悟性」の二つに分ける。感性とは、要するにこれまで議論をしてきたアプリオリな形式を持つ直感する能力のことだ。それでは、ここで言われる「直感」とは何であろうか。カント哲学における直感とは、対象を自己のうちに現象として受容する能力のことである。これはいわば、感性(の直感能力)は諸事象をデータとして自分の脳内に取り込んでいるということである。色や形といった僕たちが普段認識しているもの全てはこの能力を通して自身の内に取り込まれている。感性がなければ人は「そこに何かがある」といったことさえ認識できないだろう。そして、この感性に備わる形式というのがすなわち時間と空間であった。この時間と空間という規定を超えた直感を得ることはできないということは、これまで確認してきたとおりである。

もう一方の「悟性」は、感性を通して得られたデータを判断し意味を持たせる能力である。悟性と訳されてはいるが、これはようするに知性のことだ。悟性は概念から与えられたデータを統合し、概念化している。概念化するとは、与えられたデータを適切に処理し「把握する」ということである。この能力なしには、例えば「机」を「机」として認識することができなくなる。「机」の場合、悟性能力が働かなければおそらく「四角い」「四つの足がある」「地面に立っている」などただの無意味なデータの束としてしか認識できなくなるだろう。これらのデータを悟性が統合し合理的に解釈することで初めて「机」という認識が可能になるのである。

理性の認識能力は「感性」と「悟性」の共同作業によって成り立っている。理性とは諸事象に理由付けを行う能力であるが、この働きはまず何らかのデータが与えられないことには推論のしようがないだろうし、データだけあってもそれを処理する能力がなければ何事も判断することはできない。現代風に例えるなら、データが入ったUSBだけでもデータの入っていないパソコンだけでも、意味がないのということになるだろう。このことをカントは以下のような文章で表している。

「内容なき思惟(しい)は空虚であり、概念なき直観は盲目である」

カント 『純粋理性批判』

この文章を、先ほど僕たちが使用した言葉を用いて言い換えてみよう。これはつまり、「データのない推論は無意味だし、把握する方法のないままデータだけを集めても同じく無意味である」ということだ。このように、人間が持つ認識能力は感性と悟性の共同作業によって成り立っているのである。

悟性と自我

感性に空間と時間という形式があったように、悟性も悟性固有の形式を持っている。それをカントは「カテゴリー」と呼んだ。カテゴリーとは先ほど見た「データを処理するその仕方」のことであり、これもアプリオリな形式である。

例えば、物事を原因と結果の関係によって捉える「因果関係」という判断の形式もカテゴリーのうちの一つである。カテゴリーが悟性のアプリオリな形式であることを示すために、「わたしが手を離したから石は地面に落ちた」という一連の現象を「因果関係」に則って解釈してみよう。この現象を客観的に分析すると「わたし」、「手を離す」、「石」、「地面」、「落ちる」という別個のデータに分解できる。では、「わたしが手を離したから石は地面に落ちた」の「から﹅﹅」とは一体何に由来するものなのだろうか。感性から得られた別個のデータを分析しても「から」という因果関係は導き出されない。とすると、「から」という因果関係は一連の現象を判断している悟性に由来するものとするしかない。このことから、「因果関係」は現象を判断する悟性のアプリオリな形式(「データを処理するその仕方」)ということが導かれる。

このように悟性が現象を判断する時に用いる形式を、カントは12個提示した。人間の思考は全てこの12個の判断形式のうちのどれかに当てはまる。そして、12個の判断形式を一覧したものを「判断表」と呼び、この判断表に対応するカテゴリーをまとめたものを「カテゴリー表」と呼ぶ。判断形式とカテゴリーは4つに分類でき、それぞれ「量」「質」「関係」「様相」に対応している。先ほどの「わたしが手を離したから石が地面に落ちた」という例は、「関係」の形式に含まれる仮言判断である(もしわたしが手を離せば、石は地面に落ちる)。

【カテゴリー表】

 

●「量」の判断に関わる形式
全称判断(すべてのAはBである)
特称判断(いくつかのAはBである)
単称判断(このAはBである)

●「質」の判断に関わる形式
肯定判断(AはBである)
否定判断(AはBでない)
無限判断(AはBとは異なる)

●「関係」の判断に関わる形式
定言判断(AはBである)
仮言判断(もしAであれば、Bである)
選言判断(AはBかCである)

●「様相」の判断に関わる形式
蓋然判断(AはBでありうる)
実然判断(AはBである)
必然判断(AはBでなければならない)

ところで、カテゴリーが対象を判断するためには、もう一つ必要なものがある。それは「私」の存在である。これは一般的に「自我」と呼ばれている概念であるが、カントはこのような自己意識のことを「超越論的統覚」と呼んだ。超越論的統覚は悟性そのものに由来し、個々の経験や判断からは生じない。

「わたしが手を離したから石が地面に落ちた」という判断の場合、「わたしが手を離した」という認識と「石が地面に落ちた」という認識がカテゴリーに従って結合するためには、2つの別々の認識を同一の主体が経験している必要がある。もし2つの認識を全く異なる意識が認識していたとすれば合理的な判断を下すことはできないだろう。

超越論的統覚の必要性をより鮮明にするために、もう一つ例をだしてみる。「一週間前に植えた種が、今朝芽をだした」という判断を考えてみよう。この場合、「一週間前に種を植えた私」と「今朝芽を観察した私」の意識は同一ではない。しかし、現実に僕たちは別々の時間・空間で経験したものを統一して判断することができる。つまり、いつどこでどのような意識を持ったとしても、それらは別々の「私」ではなく同一の「私」なのである。

同一の統覚が存在しないことには、人はひとつながりの判断を行うことができない。このように、個々別々の経験に左右されず、それらの経験を総合するものであるという意味で、カントにとっての自我は「超越論的統覚」なのである。

「考える」とはどういうことか

それでは、人間が持つ理性の能力についてまとめよう。理性による認識能力は、「感性」と「悟性」の2つから成り立っていた。

感性は、空間と時間というフィルターを通して外部のデータを自身のうちに取り込む役割を果たしていた。感性がなければ、僕たちは世界について一切を知り得ないだろう。

悟性は、感性を通して得られたデータを処理し概念として把握可能にする能力であった。悟性にも感性と同じく固有の判断の形式が備わっており、それは「カテゴリー」と呼ばれている。カテゴリーは12個の判断表に対応したものとなっており、全ての人間の思考はこの12個のうちのどれかに当てはまる。また、カテゴリーを対象に適用し統一的な判断を下している自己意識が「超越論的統覚」である。超越論的統覚は個別の経験や意識に影響されず、悟性そのものに由来するものである

人はこれら2つの認識能力が協働することで、何かを考えることができるのである。そして、人が何かを考えるという能力には制約がある。すなわち、感性と悟性に固有のアプリオリな形式がそれである。感性は空間と時間という形式を持ち、悟性は12個のカテゴリーという形式を持っている。いわば、理性には2つの取り外すことのできないフィルターが掛けられているのである。この2つの形式がアプリオリに備わっているため、この形式を超えた概念に言及しようとすると理性はうまく働かなくなり、逆に不合理に陥ってしまうのである。

逆に言えば、人間の理性能力はアプリオリな形式の内部においては正常に作動することができる。つまり空間と時間および12個のカテゴリーが妥当する範囲において判断は有効であり、また様々な知識を蓄積することができるのである。さらにいえば、世界は空間と時間およびカテゴリーによって全て構築されているということができる。なぜならそもそも人間が経験できるのはその範囲の内のみであるからだ。感性と悟性が持つ形式はアプリオリなものゆえに、その外部のことは原理的に知りえない。つまり、人間が持つ理性能力すなわち「考える能力」は、人間にとっての世界そのものを規定するものなのである。

【実践理性批判】

「純粋理性批判」では人間の理性能力について見てきた。簡単にまとめると、理性能力とは物事に理由付けを行う能力のことであり、また客観的なものではなく主観的なものである。主観的なものであるがゆえに、理性能力は理性が持つアプリオリな形式の内部でしか機能しないのである。

そして次に取り上げるのは、形而上学を超えた実践哲学の領域、すなわち自由と道徳についてである。この章では「なぜ人は自分で考えるべきなのか」についての核心部分が純粋理性批判での議論を礎石としながら明かされることになる。結論を先取りすると、自分で考えることが大切なのは、人が自由で道徳的な存在であるためだ。

自由と道徳は切っても切り離せない関係にあり、そしてこの2つはどちらも「考えること」によってしか実現されない。つまり自分で考えることが重要なのは、道徳のためなのである。こうして簡潔に表現してしまえば、「なんだそんなことか」と思うかもしれない。しかし、果たして問いと結論だけを見て哲学を理解したと言えるだろうか。そもそも哲学の本懐はその結論に至るまでにどのような議論を積み重ねてきたのかという点にある。どれだけ難解な哲学体系であろうと、問いと結論だけならばただの格言に過ぎない。それが本当に意味を持つのは、その結論を導くために費やされた思考なのである。ごく当たり前の結論に、類まれなる議論を積み重ねるからこそ、哲学は単なる情報を超えた説得力を持ち後世にまで語り継がれるものなのである。

また、そもそも自由とはどういうことか、道徳とはどういうことか、これについて答えることも簡単なようで難しい。自由と道徳という概念は、僕たちの理性の認識能力では捉えることができない。しかし、確かにそれは存在している。もし存在しないとすれば、人間は社会を築くことのないただの動物だっただろう。したがって、自由と道徳の正体はその限界を見極めながら論証されるしかないのである。

「実践理性批判」とはどういうことか

カントの代表的な倫理学書は、「第二批判」とも呼ばれる「実践理性批判」である。本章ではこの「実践理性批判」とともに、これ以前に著された「道徳形而上学原論」という書物の内容を盛り込みながらカント倫理学について考察していきたい。

「実践理性」とは「理性の実践」のことであり、ようするに理論から導き出された道徳の実践のことである。「理論と実践」と言えばわかりやすいだろうか。カントの場合、前章で見てきた「純粋理性批判」が理論部分を担っており、その理論を僕たちの日常生活でどう実践するべきなのかについて考察されているのが「実践理性批判」および「道徳形而上学原論」なのである。

本章ではカントの道徳論について見ていくわけだが、その前に僕たちは道徳が成立するための条件について考察しなければならない。その条件こそ、「人間が自由であること」だ。自由であるとはつまり、人間の意志が物事の最終原因であるということである。「人間が自由であること」を証明しないことには、道徳について議論することはできない。なぜなら、もし人間が自由でないとしたら、すなわち自分の意志が自分以外によって規定されているとすれば全ての現象は必然であることになり、そこに人間の意志が関与する余地が一切存在しなくなるからである。つまり、行為に対する個人の責任を問えなくなるのだ。

もし世界の全てを規定する法則のようなものが存在するとすれば、全てはこの法則に従って動いていることになる。このような立場のことを学問的には「決定論」あるいは「宿命論」と言うが、より一般的には「運命」という言葉を当てはめることができるだろう。運命が支配する世界では、どれだけ悲惨な事件や凶悪な犯罪が起こったとしてそれは「必然」だったという一言で片づけられてしまう。行為行動の最終的な意志決定の自由が人間にない状態では、残虐な犯罪者であろうと罪に問われることはない。なぜなら、犯罪を行うかどうかはその人自身の意思とは関係なく、必然的に起こったことだからである。こうなると、そもそも「罪」や「犯罪」、あるいは「善」などの概念も意味をなさなくなる。これはつまり行為を決定する主体としての自己が消失するということであり、人間の存在それ自体までをも否定しかねない。究極的には、人間同士が戦争状態に陥って滅びことになったとしても、それは最初から決められていただけのことであり、人間が努力を重ねる意味がなくなってしまうのである。

従って、人間が道徳に従ってより善い社会を形作っていくためには、人間には意志の地涌が存在することをどうしても証明する必要があるのである。

自由とは何か 人は自由であるか

自由を証明する際に、ようやく「純粋理性批判」で解説した内容が積極的な意味を持つ。実は、「純粋理性批判」を通して人間の理性能力について詳細に議論をしてきたのはひとえに実践道徳に必要な条件である自由を証明するためだったと言っても過言ではない。

理性批判の際に提出された4組のアンチノミーのうち、第三アンチノミーが自由に関するものであった。この第三アンチノミーを検証することによって、人間に自由は存在するかどうか、また存在するとすればそれはどのような性質のものなのかが明らかになるだろう。ここで決定的に重要な役割を果たすのが、第一アンチノミーの検証を通して明らかになった理性のアプリオリな形式に関する議論である。

自由のアンチノミー

第三アンチノミー : 人間は自由なのか?
【肯定命題】 自由は存在する(自由による因果性が存在する)
【否定命題】 自由は存在しない(すべては自然法則に従って必然的に起こる)

人は、自分の行動を自分で決めているように見える。あなたはあなたの意志で今この文章を読んでいるはずだし、おもしろくなければ読むことをやめることができる。トイレに行きたくなれば行けばいいし、お腹が空いたなら食料を調達して食べればいい。仕事や学校に行くことがイヤになったのなら、明日一日くらいはサボってしまうというのはどうだろうか。いっそのことやめてしまうというのも一つの手だ。それは、あなたの自由である。

しかし、本当にそれはあなたの自由と言えるのだろうか。少し考えればわかるように、あらゆる現象にはその原因を想定することができる。例えばトイレに行きたくなったりお腹がすいたりするのは、突き詰めれば肉体を維持するために必要だからだ。仕事が辛いのは上司の性格が合わないからかもしれないし、残業続きで疲れがたまっているからかもしれない。いずれにせよ、あなたの意志の発端はあなた自身に規定されていないため意志が自由であるとはいえない。あなたの行動の原因はどこまでも遡っていけるからだ。この記事を読んでいるのだって、何か理由があるだろう。

このように、第三アンチノミーは行為の究極原因は人間の意志に属するものなのか、それとも絶対的な自然法則に属するものなのかという問題である。結論を先取りすれば、両命題はその主張が妥当する範囲を制限することでどちらも成り立つ。つまり、人間の意志によって規定されている因果律も存在するし、一方で自然法則によって規定されている因果律もまた存在するのである。

感性界と英知界

ここで、少しだけ「純粋理性批判」の内容に戻ろう。純粋理性批判での議論よると、理性が外部の世界について認識できるのは、感性に備わる空間と時間というアプリオリな直感形式を通してのみであった。

人は空間と時間の範囲内でしか有意味な認識を得ることはできない。これは言い換えると、世界に対する理性の働きに制限をかけることを意味している。ということは、世界には理性の持つ認識能力が及ばない存在領域があるはずだ。世界における理性の能力が及ばないものを、カントは「物自体」と呼んだ。これは言葉そのままに、物のありのままの姿ということである。「物自体」がどのようなものであるかはわからないし、今後わかる可能性も全くない。なぜならそれは人間の理性が認識できるものではないからである。

人間が認識できるものと物自体との区別を世界に当てはめて、空間と時間という感性の形式によって成り立っている世界のことを「感性界」、そしてこの形式に規定されていない物自体の世界を「英知界」と呼ぶ。感性界とは、つまり僕たちが現に生きているこの世界のことだ。山があり、川があり、町があり、動物が生き、そして人間が住んでいる。いわば、「人間の主観の世界」である。対して英知界とは、先ほど述べた「物自体」の世界のため、それがどのようなものなのかを人間が確かめることはできない。ただ、「存在する」ということだけしかわからないのである。対比させるなら、「人間が認識不可能な客観の世界」と言えるかもしれない。

カントによれば、人間は感性界に属している存在(感性的存在者)であり、それと同時に英知界に属している存在(理性的存在者)でもある。つまり、人間は感性界と英知界の両方にまたがって存在している両義的な存在者なのである。感性的存在者としての人間は、空間と時間の制約のもとに存在するいわば動物としての人間である。動物としての人間は身体を持ち、また身体にともなう欲望を持つ。お腹が空いたり眠くなったりするのは、動物としての習性ゆえである。

動物的な側面を持つ一方、人間は理性の能力によって言語の使用や数字を使った計算などの合理的行為をおこなう存在でもある。また、理性的な思考によって「神」「魂」「自由」など時間と空間に規定された以上の概念を持つことができる。このような概念は感性界では観察することができず、感性界で観察できない以上それは英知界に由来するものだと言うしかない。であれば、それらを認識することができる理性もまた英知界の産物であるということだ(ただし、理性は形式による制約を受けているため、「神」「魂」「自由」などを概念として持つことはできるが、認識することはできない)。このことから、人間は英知界に属する理性的存在者であると言えるのである。

感性と理性の両方を持つ両義的な存在者としての人間という概念は今後の議論の鍵となるものであるため、頭の片隅に残しておこう。

自由の証明

人間は感性界と理性界の両方にまたがって存在している。ということは、人間は感性界と英知界の二つの世界から影響を受けているということになる。

感性界に属する存在者としての人間は、自然の因果によって完全に規定されている。例えば先ほどの「お腹が空く」や「眠くなる」といった動物的習性もその一つである。感性界だけを考えるならば、あらゆる現象は時間軸上の因果関係によって成り立っている。ある一つの出来事には必ず原因が存在し、またその出来事がもたらす結果がある。その両端はどこまでも伸びていき、全ての出来事は因果関係の中に収束するであろう。つまり、感性界で起きること全ては必然なのだ。

しかしもう一方の英知界に属する存在としての人間は、僕たちが考えるような因果によって縛られてはいない。なぜなら、そもそも英知界は時間と空間による制約を受けない世界であるため、因果関係自体が原理的に成立しないからである。因果関係は空間と時間というアプリオリな直感形式を通して得られたデータを悟性が処理するカテゴリーの一つであった。したがって、空間と時間を超越した存在に対して因果関係という判断形式を当てはめることはできないのである。

ここで、この世界(感性界)の全ての現象について果てしなくその原因を遡っていけることが「自由のない状態」だとすれば、理性的存在者としての側面を持つ人間はこの自然法則に完全に囚われているわけではないということが言える。そして、「自由である」とはすなわち自然因果の法則に囚われずに何らかの意思決定を行うことであるため、因果関係に縛られていない英知界に属する存在者としての人間は感性界における「第一の始め」となることができる。すなわち、人間は「自由」であること、ないしは「自由」である可能性があると言うことができるのである。感性界における出来事の究極原因を英知界に求めることから、カントはこれを「自由による因果性」と呼んだ。

自由に関するここまでの議論を整理する。まず純粋理性批判における理性の考察から、世界は人間が理性を用いて認識できる感性界と、人間の理性では認識することのできない英知界の2つの領域に区分することができる。そして、人間は身体といった感性的特性を持つ一方、合理的思考を通して「神」、「魂」、「自由」といった感性界の制約を免れた概念を持つことができることから、感性界と英知界の両方にまたがって存在していると考えられる。

それでは、もう一度第三アンチノミーを確認してみよう。

第三アンチノミー : 人間は自由なのか?
【肯定命題】 自由は存在する(自由による因果性が存在する)
【否定命題】 自由は存在しない(すべては自然法則に従って必然的に起こる)

自由が存在しないということは、人間の意志も含めた全てが因果関係の中で必然的に起こるということだ。自由が存在するということは、人間の意志が因果関係の「第一の始め」となることだと言える。ここで、先ほどの議論から肯定命題と否定命題はどちらも成り立つということがわかるだろうか。

先ほど僕たちは世界に感性界と英知界という二区分を措定した。因果関係を含めた自然法則は感性界においてのみ成り立つ判断形式であるため、それは英知界には適用されない。つまり、肯定命題は英知界において成り立ち、否定命題は感性界において成り立つ。そして、人間は感性界と英知界の両方に属している存在なので、人間は英知界に属する存在者として自由を行使することができるのである。

こうしてカントは、肯定命題と否定命題の適用する範囲を制限し、人間を両方にまたがる存在とすることによって第三アンチノミーの解決を図った。先に考察した第一アンチノミーでは両命題がどちらも偽であったのに対して、ここでは両命題は範囲を制限してどちらも真であると結論付けられるのである。したがって、「自由」は存在する。

ただ、ここで言う自由の理念は、「好き勝手に振舞えること」という意味では全くない。むしろ、僕たちが想像するような「自由」とは真逆﹅﹅であると言うことができるかもしれない。カントにとっての自由とは英知界に属するものであり、感性界に一方的な影響を与えるものであった。つまり、英知界の自由に厳格に従うことこそ感性界に生きる僕たちにとっての本当の自由なのである。「自由に厳格に従う」とは一見矛盾した命題であるが、この命題こそ以降取り上げるカント倫理学において決定的に重要な意味を持つことになる。それでは「自由に厳格に従う」とはどういうことだろうか。これに対する解答は以降の議論で明らかにされるだろう。

道徳とは何か

カントにとっての道徳とは、全人類に普遍的に妥当する絶対的なものである。ある場合には許容されされ、ある場合には許容されないといったことがあってはならないのである。

例えば「約束は守らなければならない」といったことを考えてみる。一般的に、約束を守ることは最も基本的な道徳的行為だと考えられている。しかし、このような状況を想定してみるとどうだろう。

あなたはあなたの一番の親友から、返してくれと言われたらいつでも返すという約束で狩猟用に銃を借りていたとしよう。ある時親友から、「自殺したいから銃を返してくれ」と言われたとする。親友に何があったかはわからないが、目は血走り、身体は震え、明らかにただ事ではない。「自殺したい」というのは冗談ではないだろうことが容易にわかる。さて、この状況であなたは親友に銃を返すべきだろうか、返さないべきだろうか。この場合、約束を守るという行為は果たして道徳的と言えるのだろうか。おそらくほとんどの人が、「銃を返すことは道徳的ではない」と答えるだろう。しかし、カントは命じる。「それでも、約束をしたのならあなたは銃を返すべきだ」と。

これが、「厳格主義」とも呼ばれるカントの倫理学である。カントにとっての道徳はいかなる状況いかなる場合でも絶対的である。この道徳は絶対的に人間の行動を規定しており、個々の状況など顧みない。人間の意志など取るに足らないものなど言わんばかりの、恐ろしいまでに確固とした法則が道徳なのである。

このような道徳の考え方は、一般的な倫理とはかけ離れているように見える。正直に言うと、僕も初めてこの考えに触れたときは納得できなかった。確かに道徳に例外を認めてしまえば、それはもはや道徳としては機能しなくなる可能性がある。しかし、上のような極限状態を想定すれば、それはもはや道徳的であるというよりも非人道的だ。道徳は人間が善く生きるためにあるはずなのに、むしろ人間よりも道徳という法則の方を重視している。それでは本末転倒ではないか。

それでも、やはり道徳は絶対であるべきなのである。一見すると非道徳的にみえるこの絶対法則も人間社会にとって必要なのである。この節では、その理由と理論について解説していくことにする。

本節を読み進めるにあたっては、先にあげた極限状態における道徳的であることと人道的であることの対立を念頭に置いてほしい。この対立を軸にして議論を進めるわけではないがカント倫理学を理解する上では役立つと思う。カントの道徳観について一通り考察した後で、親友と銃の例については最後にもう一度触れることにする。

道徳の根拠としての善意志

カントが道徳の基準とするものは「善意志」である。「善意志」とは英知界に存在する「善の物自体」に従おうとする意志のことであり、これだけが普遍妥当的な道徳法則を根拠づけている。なぜ道徳法則の根拠が英知界になければならないのか。それは、感性界(この世界)における快や不快、幸福などは普遍妥当的な道徳の基準にはなり得ないからだ。

経験的な快・不快の基準は人によって全く異なる。例えば、お金があれば幸福だという人もいるだろうし、素敵な恋人をもつことが一番の幸福だという人もいるだろう。しかし、お金があっても幸福ではない人は現に存在するし、また素敵な恋人を持ったからこそ不幸になるということもあるだろう。

同じことは、行為のレベルでも当てはまる。例えば、「電車では老人に席を譲る」という行為を考えてみよう。この行為が道徳法則として成立する根拠を快・不快の基準で捉え直してみると、こう言い換えることができるだろう。「全ての老人にとって、電車で席を譲られることは快である」と。これが普遍妥当的な道徳法則になり得ないことはすぐにわかる。ある老人にとっては席を譲られることが快であるかもしれないが、ある老人にとってはもしかすると不快であるかもしれないからだ。つまり、各個人の快・不快の基準はその人の個別的経験に依拠するものであるため、道徳法則としては帰納しないのである。したがって、普遍妥当的な道徳法則を根拠づけるものは英知界に存在する絶対的な「善の物自体」しかありえず、これに従うことがすなわち道徳的行為なのである。

「善の物自体」や「善意志」など大仰な言葉を使ってはいるが、実際僕たちはこれを日常的に経験している。例えば、大学の講義をサボったときにうしろめたく感じたり、人に親切にすると嬉しくなったりといった素朴な感情がすなわち「善意志」である。こういった感情を今まで一度たりとも持ったことがないという人はいないだろう。このような感情こそが道徳が存在する根拠であるとカントは主張しているのである。

義務としての道徳

「善の物自体」に従う「善意志」がすなわち道徳の根拠であるが、この概念をカントは「義務」という厳しい概念で捉える。これはつまり、人間にとって道徳は義務として経験されるということだ。確かに道徳は多かれ少なかれ「~するべきだ」という義務の形をとって僕たちに働きかけてくる。例えば「大学の授業は出席するべきだ!」や「人に親切にするべきだ!」といった具合である。それでは、なぜ人間にとって道徳は義務として経験されるのだろうか。この道徳と義務のメカニズムも、やはり感性界と英知界の両方に属する人間の存在様式によって説明される。

英知界に属する理性的存在者としての人間は、常に善意志に従って行為することを望んでいる。しかし感性界に属する感性的存在者としての人間は、欲望やその時々の状況によって善意志に抵抗する。授業には出席するべきであるということは理解していながら、例えば「眠いから」とか「今日はもう疲れたから」など何かと理由をつけて僕たちは道徳的ではない行為を選択することがある。理性が要求する道徳的行為に対する感性の抵抗とは、例えばこのようなことである。

もし人間が完全に理性的存在者であったなら、彼は純粋な理性のみに従って、苦しみも喜びもせずただ平然と善意志に従ったであろう。同じように、もし人間が完全に感性的存在者であったなら、彼は善意志を認識することすらできず、ただ自分の欲望のままに動物的に振る舞うだろう。したがって、理性的であると同時に感性的な存在者である人間にとって、道徳は理性的存在者から感性的存在者への「命令」という形で経験されるのだ。感性的人間はこの「命令」に従うことを義務付けられており、感性的人間がこの命令に従った場合に、道徳は感性界において実現するのである。

仮言命法と定言命法

人間理性が道徳として要求する命令文のことをカントは「命法」と呼び、さらにこの命法を2種類に分けた。条件付き命法である「仮言命法」と、無条件の命法である「定言命法」である。2種類あるといっても、実は「仮言命法」は理性が要求しているように見えるニセモノの道徳法則である。

カントがなぜわざわざニセモノの道徳法則を取り上げる必要があったのかと言えば、世間一般に信じられている道徳規範がこの仮言命法であるからに他ならない。つまり、仮言命法と定言命法の区別に込められたカントの意図は、世間一般に信じられている道徳がニセモノであることを暴露し本来の道徳の在り方を「定言命法」として対置することにあった。これについて、まずは仮言命法から見ていこう。

仮言命法

仮言命法とは、「もし~ならば、~すべし」という条件付きの命令である。この命法で表現されるニセモノの道徳の典型として、「もし人に信用されたければ、嘘をつくべきではない」あるいは「もし人に信用されたければ、正直でなければならない」という命題があげられる。このように仮言命法は後半の命令が前半の内容によって条件づけられているものである。言い換えれば、前半の内容が目的であり後半の命令が手段になっているといえるだろう。

定言命法

これに対して定言命法は、条件なしに端的に「~すべきである」あるいは「~すべきでない」とだけ命じる命法である。先ほどの例で言えば、「嘘をつくべきではない」とだけ表現されるものが定言命法である。条件なしに命じるとは、すなわち行為の結果に関わらず絶対に従う必要があるということだ。「嘘をつくべきではない」のは、たとえ正直に振舞うことでそれだけ自分が不利益をこうむるとしても、嘘はつくべきではないのである。ここでもあえて極限状態を想定すると、定言命法「嘘をつくべきではない」は、正直に振舞うことでたとえ自分が死ぬことになったとしても、嘘をつかないことを要求する。定言命法は非常に単純であり、そして単純であるからこそ非常に強力かつ厳格なものなのである。

なぜ定言命法が真の道徳法則なのか

カントによれば、仮言命法はニセモノの道徳であり、定言命法こそ真の道徳である。しかし一見すると、定言命法は僕たちが一般的に想像する道徳とはかけ離れているように映るかもしれない。そこで、定言命法がなぜ真の道徳法則として妥当し、仮言命法が妥当しないのかについて積極的理由と消極的理由に分けて詳しく見ていきたい。

積極的理由とはすなわち「定言命法が道徳法則でなければならない理由」であり、消極的理由とは「仮言命法が道徳法則であってはならない理由」である。

消極的理由 仮言命法が道徳法則であってはならないのはなぜか

仮言命法は「もし~ならば」という条件付きの命法である。もうお気づきかもしれないが、仮言命法はこの条件句に当てはまらない人に命令することができない。例えば「もし人に信用されたければ、嘘をついてはいけない」という命題は、意味を逆転させれば人に信用されなくてもいい人は嘘をついてもいいということを意味している。したがって、このような命法は道徳法則であるとは言えないのである。

また、仮言命法においては前半部分が目的であり後半部分がその手段になっており、いわば道徳命令が欲望の実現に従属している構造になっているといえる。先ほどの命題の場合、「人に信用されたい」という欲望のほうが主眼にあり、「嘘をついてはいけない」という守られるべき道徳命令のほうがむしろ下位に位置しているのである。要するに、この原理は結局のところ「自分が信用されたい」という個人の欲望の実現を追求しているだけであり、端的に言って「エゴイズム」の裏返しでしかない。この点において仮言命法が道徳法則でないのは明らかである。

先ほどは定言命法における極限状況を想定した。なので、同じように仮言命法においても極限状況を想定しなければ公平ではないだろう。例えば、仮言命法「自分が傷つけられたくなければ、人を傷つけてはいけない」が道徳法則として普遍的に受け入れられている世界を考えてみよう。この場合、自分が傷つけられてもいい人はいくら人を傷つけてもいいということになる。さらにいえば、自分が殺されてもいい人はいくら人を殺してもいいという理屈が道徳としてまかり通る。どういうことが起こるか。この世界では「自分が殺されてもいいと思えるくらい人を殺すことが大好きな」殺人鬼が、自分が誰かに殺されるまで殺戮を繰り返すだろう。たとえこの世界に司法と刑法が存在していて彼が捕まったとしても、それはあくまで法律に違反したから捕まったのであり、誰も彼を非道徳的だと責めることはできない。なぜなら、彼は極めて道徳的人間﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅だからである。

僕たちが一般的に道徳だと信じて疑わないもののほとんどは、実は仮言命法である。例を挙げればきりがないが、「自分がされて嫌なことは人にはするな」や「親切はいつか自分に返ってくる」といった教説まで、この世界に道徳として出回っている言葉のほとんどは実は「条件つき」なのだ。「親切はいつか自分に返ってくる」と言えば響きはいいが、これも「親切にされなくてもよければ、人に親切にする必要はない」に言い換え可能である。いくら口当たりがよかろうが、これを道徳法則として認めることはできないのである。

積極的理由 定言命法が道徳法則でなければならない理由

定言命法が道徳法則足り得る理由は、それが普遍妥当的だからである。仮言命法で問題になっていたことは、行為の前提条件が全ての人に当てはまるものではないということだ。ではなぜ全ての人に当てはまらないかというと、それはつまり条件が感性的欲求に結びついているからである。

感性的存在者である人間はそれぞれ全く異なる経験を持つために、持つ欲望もまた全く異なる。したがって、法則が普遍妥当的であるためには、法則の規定根拠から感性的要素を全て排除する必要がある。この場合の感性的要素とは個人の欲望の充足に結びついている条件句であるため、この部分を捨象すればその命令は普遍妥当性を持つと言える。

人間の内にある感性的ではない部分とはすなわち純粋理性のことである。つまり、純粋理性からの命令は普遍妥当的であると言えるのである。その理由は、純粋理性は全ての人にアプリオリに備わる普遍的能力だからである。人間が持つ理性能力は英知界に属するものであり、英知界に属する以上空間や時間の制約を受けない。感性に影響されない以上、理性的存在者としての人間に本質的な差異はない。英知界に属するものである理性は、「善の物自体」に従う意思を持ち、そしてこの働きは普遍的なものである。よって、理性から感性へと命じられる条件句なしの定言命法は普遍妥当性を持つということができる。

それでは、理性から感性への命令はなぜ条件句の伴わない定言命法として経験されるのだろうか。それは、理性的存在者から﹅﹅感性的存在者道徳行為が命じられるとき、その命令に感性的要素が含意されることはありえないからだ。なぜなら、道徳の源泉は英知界に属するものであり、感性界からの影響を受けることはないからである。したがって、道徳への服従命令は感性人格にとっては端的「~すべきである」とだけ経験されるのである。

以上が、定言命法は普遍背妥当性を持ち道徳法則足り得る根拠である。ごく簡単に表現すれば、定言命法が普遍妥当性を持つのは、人間に普遍的に備わる理性がそういう風に命じるからである。

定言命法は何を命じるのか

ここまでの議論で、定言命法とは端的に「~すべきである」と表現される命令であること、そしてそれが普遍妥当的な道徳法則として成り立つことを見てきた。しかし問題なのは、それでは道徳法則は具体的に何を人々に命じていのるかということではないだろうか。道徳法則は「~すべきである」という形で表現されるとだけ言われても、それでは道徳的行為が一体何であるのかが全くまからないだろう。

カントによれば、道徳法則が命じることは、「ただ普遍法則に従うことを意志せよ」というものである。普遍法則に従うとは、要するに全ての人がしてもよいことをするということだ。例えば、「嘘をつく」という行為をしてはならないのは「嘘をつく」という行為は全ての人がやってよいことではないからだ。自分にとってどうしても嘘をつく必要があるという個別的状況があるとしても、嘘をつくという行為は全ての人がやってよいことではない以上、嘘をつくことは道徳に背く行為なのである。つまり、道徳的行為であるかないかの判断基準はその行為が普遍化できるかどうか、全ての状況において妥当するかにある。このことをカントは定言命法の根本方式として次のように定式化した。

「汝の意志の根本指針がつねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」

カント 『実践理性批判』

これはつまり、ある行為をするべきかするべきではないかの判断基準を常に普遍法則に一致させろということだ。普通、僕たちがある行為をするかどうかを決定しているのは自分自身である。これは俗な言い方をすると「自分ルール」に従って行動している状態と言える。しかしこの「自分ルール」に基づいた行為は普遍化できないため道徳的行為とは言えない。

そこで、カントは人が道徳的であるために「自分ルール」ではなく「普遍的なルール」に従って行動することを求めているのである。そして行為が「普遍的なルール」に一致するかどうかを見分けるポイントは、その行為は全ての人がしてもよいことなのかどうかということなのである。

カントの最終的なこの結論は、その議論の内容に比べて極めてシンプルなものだ。カントが言いたいことは、つまるところこういうことである。

「自分の行動が道徳に沿うものであるかどうかをいつも意識して行動しなさい」

理性を用いて自分の行動が道徳に沿うかどうかをチェックすることを、カントは「良心の法廷」を通して行われると表現した。この法廷で裁かれる被告人は自分自身の感性的人格であり、感性的人格を訴える原告と最後に判決を下す裁判官はどちらも自分自身の理性的人格である。つまり「良心の法廷」とは、自分の行為を理性を通して客観視するための場なのである。このことからもわかる通り、カントが道徳に託した願いは、一人一人が自分自身の良心に従うことなのである。自分の行動が道徳的に正しいものであるかどうかを、自分の良心と向き合って考え続けることが、すなわち道徳への第一歩なのだ。

カントの倫理学が厳格である意味

「善の意志」というふくよかな概念から始まった道徳論は、「義務」という非常に厳格な命令を通り、最後には「良心」という誰もが自らの内に持つ最も純粋な道徳感情にたどり着いた。このように議論の表層だけを辿ると一貫性がないように見えるかもしれない。しかし、この構造を理解することこそカント倫理学を実践道徳として捉えるために必要なことなのである。

カントの倫理学を貫いているのは、全ての人が持つ良心への信頼である。カントが道徳法則を厳格な命令であるして頑として譲らないのは、人間が持つ最も純粋かつ温かな「良心」をなんとしても守り抜くためであると僕は解釈する。「良心」は人が持つ最も純粋なやさしさの感情だ。だれもがその意味を知っているし、だれもがいつでも経験している。人に親切にすると自分も嬉しくなったり、不正をすると後悔したり、これらは良心に由来する感情である。

しかしこのような感情は、常に自分の欲望との対立にさらされ容易に忘れ去られてしまう。それどころかこのような素朴な道徳感情は時として「偽善」だと断じられ、あまつさえ悪であるとまで言われることがあるのである。これは少し歴史を振り返れば容易に見つけ出すことができるし、あなたの身近にも常に存在すると思う。

だからこそ、人が人として持つ当たり前の感情が道徳であるためにカントの倫理学は厳格でなければならない。カントの倫理学説には、一般的に倫理学で扱われる「神」「国家」「幸福」などは主概念として登場しない。それは、カントは神よりも、国家よりも、幸福よりも、人間一人一人に備わる最も純粋で素朴な感情を道徳法則として信じたからなのである。

自由と自律

自由

議論を振り返ってみよう。カント倫理学の基本軸は、感性界と英知界に二分された人間の在り方だった。人間は英知界に属する存在として理性を持つ一方、感性に属する存在として欲望などを持つ。道徳の源泉になっているのは理性の領域に属する「善の物自体」である。「善の物自体」は英知界に属するものであるため、唯一絶対である。またそれに従おうとする理性能力も全ての人にアプリオリに備わっているため、「善意志」は普遍妥当的な道徳法則として成り立つ。しかし理性が道徳法則に従おうとする一方感性はそれに抵抗しようとする。よって、理性が「善意志」に従うことを感性に要求する時、それは「命令」として経験されるのである。また、この命令は純粋理性から下されるものであるため、一切の内容を伴わない。ただ「普遍妥当的であれ」とだけ命令するものである。

ここでようやく「自由に厳格に従う」とはどういうことか、つまり自由であるとはどういうことかを明らかにすることができる。自由であるとはつまり、感性に束縛されず純粋理性に基づく道徳法則に従うということなのだ。無限の因果律に支配されることが「自由ではない」状態であるため、因果法則に規定されない純粋理性に従うことが「自由である」状態と言える。純粋理性に従うこととはすなわち道徳に従うと言うことだ。

「自由であること=道徳的であること」という関係式は、カント倫理学において強調しすぎてもしすぎることはない。このことをカントはこう言い表した。

「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である」

カント 『実践理性批判』

これは、自由の存在が道徳法則の存在も証明していること、また道徳法則があるからこそ自由の存在を認識することができるということを意味している。カントにとって、自由と道徳法則は不可分の関係にあるのだ。

自律

自由と道徳の概念が確立されたことから、最後に「意志の自律」に触れてカント倫理学のまとめとしたい。自由であるとは自らのうちにそれ以上遡ることのできない行為の究極原因を含むということである。したがって、全ての人間は「目的設定の主体」として存在していると考えられる。このことを説明するために、仮言命法に従う感性的人格と定言命法に従う理性的人格を対比してみよう。

人間が自分の外部に存在する動機によって意思を決定している場合、人間の意志は手段として存在していることになる。これはつまり、仮言命法に従っている場合である。例えば「もし人に信用されたければ、嘘をつくべきではない」という命法に基づいて行動する場合、その行為の主眼になっているのは「人に信用されたい」という部分であり、行為はその目的を達成するための手段として従属している。この意味で、人間の存在は「他律」状態にあるのだ。これは、例えば意志の規定根拠を「神」に求める場合にも同じである。

一方、道徳的人間すなわち自由な人間は、自身の内なる理性の声のみに従っているという点において、彼は「自律」している。自身の理性の声とは定言命法のことであるが、なぜそれが自律に繋がるのだろうか。一般的に、席を立つのはトイレにいくため、水を飲むのは喉を潤すため、といった風に行為は何らかの目的達成のために行われる。しかし、このような目的を前提にしているかぎり人間は何らかの目的に従属している「他律」状態であるということを先ほど見た。これに対して、自身の純粋理性に基づく「~すべきである」と端的に表現される定言命法は、条件による規定を一切受けていない。なぜそうするべきなのかという(その行為の目的は何か)と問われたときにあえて答えるとすれば、「~するべきだから、~するべきなのである」という同語反復にならざるを得ない。つまり、それ自体が端的に目的として存在している。したがって、定言命法を経験する人間は自己目的的に存在しており、その意志は自律しているのである。また、実際に道徳的に振舞うかどうかに関わらず(振舞う方が望ましいが)、全ての人間は多かれ少なかれ定言命法を経験することから、全ての人間は目的として存在しているということが導き出される。

このように、意志の自律は定言命法から論証されることから、カントは定言命法の根本方式を言い換えてこう表現する。

「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行為せよ」

カント 『実践理性批判』

これに関しては、言い換える必要はないだろう。要するに、自分を含めたすべての人間は平等であるということだ。理性を持つ全ての人格は自分自身と同じくそれ自体が目的として存在している。それ自体が目的である人格は、かけがえのないものである。なぜなら、目的のために手段が置き換わることはあっても、手段によって目的が置き換わるということはありえないからだ。理性人格全ては目的として存在しているがゆえに、尊厳という内在的かつ絶対的な価値を持っているのである。したがって、他人の人格を侵害し不正にそれを脅かしてはならない。そのような行為は、人格をなんらかの手段として使用することを意味しているからである。

他者の人格の尊重はあらゆる倫理の最も基本的な形だ。普遍妥当的な道徳法則をどこまでも追い求めたカントの倫理学には、人格の尊重という倫理の根本原理が非常に強固かつ純粋に結晶していると言えるだろう。だからこそ、カントの議論は人が人としてある限り有意味性を失わない。

自殺しようとする親友に、それでも銃を返すべきなのか

銃は、やはり返されるべきである。なぜなら「約束を守らない」ことは普遍化できないため道徳法則に背くことになる。道徳法則は、個別的状況に関わらず適用されるべきものなのだ。

また、ここで「約束を守らない」ことを選択し銃を返さないということは、一つの目的人格である親友の人としての尊厳を無視することに繋がる。あなたの親友は理性的人格の意志の自由の下で、「約束をしたのだから、銃を返してくれ」と正当に主張している。理性的人格が正当な主張をしているのに、あなたが道徳法則に背いて約束を反故にするということは、すなわち親友の理性的人格としての尊厳を否定するということなのだ。自分の一番の親友だったとしても、いや親友だからこそ、あなたは親友の人格を尊重しなければならない。それが例え最悪の結末に繋がることになったとしても、である。

しかしこのような極限状況において、あなたの道徳はより積極的な行為を要求するのではないだろうか。その行為とはすなわち、「苦悩する親友を助ける」ことである。道徳は銃を返却することを厳格に要求するように、苦悩する親友の力になることもまた要求する。なぜなら、銃を返すことが道徳的であるのと同じように、苦悩する親友に事情を聴き出来る限り力になろうとすることも、また道徳的行為だからである。

この状況における本当の課題を「苦悩する親友を助ける」ことだと捉えなおした時、道徳法則すなわち自らの良心が要求する行為に従うことこそが、やはり人として正しい行為なのではないだろうか。

【永遠平和のために】

純粋理性批判と実践理性批判を通して、僕たちは「考える」とはどういうことか、そして考えることがなぜ重要なのかについて見てきた。純粋理性批判の議論では、理性とは物事に「理由付け」をする能力であることがわかった。理性の「理」は理由の「理」のことであり、この能力があるがゆえに人は物事を概念として把握し推論することができる。続く実践理性批判では、純粋理性批判での議論をもとに「自由」の存在を証明し、また道徳とは何かについて考えた。感性界と英知界にまたがる存在である人間にとって、自由であるとはすなわち感性界の法則に規定されないことであり、そしてそれは純粋理性に従うことによってのみ可能になる。

この純粋理性が人間に命じることがすなわち道徳的行為なのであった。純粋理性の声を人は「普遍法則に従え」という定言命法として経験する。道徳的判断を迫られるような状況において、人は自身の内なる純粋理性の声と向き合いこの声に従わなければならない。なぜなら、純粋理性が命ずることは普遍妥当的な道徳法則だからである。まとめると、カントが道徳として人々に命じていることは、「何が道徳行為なのかを常に自分自身で考えろ」ということなのである。

「自分で考えること」が重要なのは、それが普遍妥当的な道徳に繋がるからなのだ。全ての人間に当てはまる普遍妥当的な法則を論証するためには、まず全ての人間に共通する要素から出発する必要があった。カントの場合それがすなわち「理性」である。そもそも人間が持つ全ての概念は本質的に理性から生じている以上、この洞察が持つ真理性は疑い得ない。

しかしここで問題になるのは、仮に「理性」が人間に備わる普遍的性質だとしても、それではなぜ道徳法則は普遍妥当的でなければならないのかという点である。さらに、そもそも人はなぜ道徳的でなければならないのかという根本的な問題がある。この問題を放置したままでは倫理学を語ったことにはならない。ところが、カントはこの問いに対する解答を倫理学書には残していない。カントの倫理学においては、人が道徳的であるべきであるということは論証されるよりむしろ前提条件になっているのだ。定言命法という条件句を伴わない命令が道徳の本質として機能するカント倫理学ではそれはある意味必然である。なぜなら、道徳的であるべき理由が存在するとすればそれは仮言命法ということになり、存在理由のある道徳は道徳ではないという論理構造になっているからである。

しかし、ここではあえて「人がなぜ道徳的であるべきか」という問いに対する解答をカントの政治哲学小論に求めてみたいと思う。この小論は「実践理性批判」から7年後に刊行されたもので、「永遠平和のために」と言う。表題の通り、この小論は永遠平和を実現するにはどうすればよいのかについて哲学的な視点から考察したものだ。

これまでは触れてこなかったが、カントが生きた当時の西洋世界は戦乱と混乱の時代であった。「永遠平和のために」が発表された1795年はフランス革命のただなかであり、西洋各国はその影響を恐れて緊張が高まっていた。

いつ終わるとも知れない混乱の時代の中で、カントはある皮肉をこの小論に込めている。表題である「永遠平和のために」という言葉は、実は墓石に刻まれる文言と全く同じなのである。おそらくカントの意図は、「このままでは全ての人類が死に絶えるという形で永遠平和が実現し、この書はその墓標になるだろう」といったようなものだったのだろう。

皮肉と共に始まるこの予言は、むしろカントが生きた時代よりも現代において意味を持つかもしれない。なぜなら、カントの時代にはまだ理論としてしか存在しなかった人類の滅亡が現代では「現実として」あり得るからである。僕たちはすでにその力が行使されたことを知っているし、また幾度となく危機は訪れた。また、今後再び危機が訪れないとは言い切れない。地球が生物の住めない巨大な核の墓場になる未来が存在することは、残念ながら現実なのである。

「永遠平和は巨大な墓穴のうちに成立することになるだろう。この墓穴には、あらゆる残虐な行為とその行為者が埋め込まれるのであり、このような事態は避けがたいのである」

カント 『永遠平和のために』

だからこそ、「永遠平和のために」は現代において当時以上の意義を見出すことができると僕は考える。また、人がなぜ道徳的であるべきかという問いを考える上でも役立つだろう。

現代にも通じる平和へのヒントが数多く含まれているので、現代の政治制度と照らし合わせながら考えてみることを強くお勧めしたい。

永遠平和実現のために必要な必要な条件とは

まず、そもそも「永遠平和」とは一体どういう状態なのだろうか。カントによると、永遠平和とは「すべての敵意がない状態」である。これはすなわち、あらゆる戦争行為が起こり得る可能性が存在しない状態のことである。これに則れば、例えば二国間の平和条約はそもそも平和条約とみなすことはできない。なぜなら、二国間での平和条約は将来の戦争の可能性を破棄しない単なる停戦状態に過ぎないからである。

すべての敵意が存在しない状態となるためにカントが提示した条件はこのようなものである。

第一項 戦争原因の排除
第二項 国家を物件にすることの禁止
第三項 常備軍の禁止
第四項 軍事国債の禁止
第五項 内政干渉の禁止
第六項 卑劣な敵対行為の禁止

以上の6項目は、永遠平和が実現するために必要な条件であり、また到達するための目標でもある。いずれの条項もカントが言う「永遠に戦争が起こり得ない状態」が実現するための条件であり、またもし本当に戦争が永遠に起こり得ないとすればこのような条項は当然実現されているだろう。

カントが残したこれらの条項は、これまで政治や経済の現実を全く把握していない絵空事だとされてきた。しかしその内容をよく見てみると、第三項常備軍の禁止・第四項軍事国債の禁止以外は現在の国際関係の基本的な前提となっていることがわかる。

常備軍の廃止も、確かに困難な課題ではあるがしかし永遠平和には絶対必要な条件である。すべての敵意が存在しない状態であるならば、常備軍は必要ないはずだ。常備軍が存在するということは他国に攻め込む可能性あるいは他国から攻め込まれる可能性が存在するということを意味し、例えその時戦争に陥っていなかったとしても常備軍が存在したままでは「一時的な」平和状態に過ぎない。逆に、全ての国家が常備軍を持たないならば、自国も軍を持つ必要はない。なぜなら、他国に攻め込まれる可能性が一切存在しないからだ。もちろんこれは「自国は他国に攻め込まない」という前提が必要となる。

しかし全ての国家は平和を望んでいるのであり、自国は平和を望んでいるのに「他国に攻め込む可能性がある」というのは矛盾している。すなわち平和を望む以上「自国は他国に攻め込まない」という前提条件は必然的に守られるはずなのだ。各国が平和という理念を共有している限り、本来常備軍は必要ないなのである。

もちろん、これに対する反論はいくらでも考えられる。例えば、国家同士は戦争意志を持たなくとも、武装組織やテロ組織によるゲリラ攻撃が行われる可能性を想定すれば、警察能力以上の軍事力は必要なのかもしれない。その他にも軍事力の必要性は様々面から主張することができ、やはりカントの主張は絵空事にすぎないとも考えられる。

ただ、カントの議論はこれで終わるわけではない。先に挙げた6個の条項は「永遠に戦争が起こり得ない状態」を実現するために達するべき目標であった。次にカントはこの目標を達成するために必要な国家や社会の体制についての議論を行う。これは永遠平和という理想がただの机上の空論に終わらないための具体案の提示である。到達するべき目標を明確にした上で、そのために必要な条件を議論していくという構造はその理想の大きさに比して極めて現実的だ。現代で言うところの「戦略的思考」である。次はこの具体的戦略について見ていこう。

永遠平和実現に必要な条件を達成するための戦略

カントが永遠平和実現のために掲げた戦略は、国家法、国際法、世界市民法の3つの制度の確立である。国家法は国民と国家の関係、国際法は国家と国家の関係、世界市民法は人と世界(全ての国家)の関係をそれぞれ規定するものである。3つの領域についてそれぞれ見ていく。

国内法

国民を動員し戦争を遂行する主体は国家である。逆に、永遠平和の実現を主導するのもまた国家の役割である。そこで、まずは国家がどのような在り方をするべきなのかを明確にしなければならない。

カントが永遠平和実現のために必要と考える国家体制は、立法権、行政権、司法権がそれぞれ独立して存在する三権分立体制である。カントはこの体制のことを共和制と呼んでいるが、今回の場合は現代で言うところの議会制民主主義とほぼ同じである。これはすなわち、国民が主権者となって国家を運営するためのものだ。そして、国民主権体制には自由、平等、自立の3つの理念が不可欠である。これら3つの理念は国民が主権者となって社会契約を結び国家を樹立するために必要であり、また国家を超えた平和状態を実現するためにも欠かせないものである。

なぜ国家は国民主権であるべきなのか。もちろん、国家とはそもそも国民が生活を営むために樹立されるものであるから、国民が主権者であるべきだという原理論を唱えることもできる。しかし、永遠平和の実現という観点から見て、この体制はそれに至る可能性がある唯一の体制である。

国民が主権者である以上、戦争を行うかどうかの判断は国民が行う。国民の同意を得ないまま戦争に突入することはあり得ず、それ以外の方法で戦争を行うことはできない。したがって、もし戦争を行うという判断が下された場合はその負担を全面的に国民自身で負担しなければならない。国民自らが兵士として戦地に赴く必要があるし、戦争に伴う経費を自分の個人資産の内から供出する必要がある。戦争行為そのものだけでなく、もし敗戦すれば戦勝国からの圧迫を受けることになり、また例え勝利したとしても戦後の復興に伴う負担は相当のものだろう。

要するに、戦争は割に合わない「ばくち」なのである。戦争に伴うリスクは資産や土地など様々なものがあるだろうが、なにより自らの命を失う危険性がある。どれだけ切迫した事情があろうと、どれだけ勝利した際の利益が莫大であろうと、自分自身の命や大切な人の命(戦争である以上当然だろう)と引き換えでは意味がない。当然だが、お金や土地で命は交換できない。したがって、共和制の下では戦争行為を始めることに慎重になるのは至極当然なのである。

国際法

次に見るべきは、国家と国家との関係を規定する国際法である。この領域での議論のポイントの一つが、カントは国家を個人と同一視しているという点である。カントは国家間の関係の考察に際し、まず初めに国家は自然状態において闘争的というホッブズ的な視点に立って考察しているのである。

個人同士の自然状態における闘争は、社会契約により国家という上位の審級を導入することで解決することができる。人々は国家を樹立し共通の法律に従うことによって自然状態を抜け出すことができるのである。しかし人々が樹立した国家は、国家内部は社会契約によって秩序が維持されているとしても、国家同士は自然状態のままである。国家同士は常に闘争状態に置かれているのである。したがって、個人が国家を樹立したのと同じように、国家も国家同士の関係に秩序をもたらす体制を構築する必要がある。

カントは国家同士の関係を規定する体制について「積極的な理念」と「消極的な理念」の2つを考察する。「積極的な理念」とは全ての国家を統合する世界統一国家構想であり、「消極的な理念」とは国家同士が並立する国際的な連合体制である。このうちカントが認容するのは、意外にも後者の「消極的な理念」の方である。

個人と国家を同一視し国家同士の関係を自然状態において闘争的であると捉えるならば、個人同士がそうしたように、国家同士もまた一つの政府を作り共通の法に従うことで平和が実現するというのが、自然な思考の道筋である。これがすなわち世界統一国家的な発想であるが、しかしカントはこれを良しとしない。なぜなら、世界を一つの国家に統合しようとすれば逆に戦争を引き起こすことになりかねないからだ。巨大な唯一の権力は、しばしば多数の少数派を圧迫する。

例えば言語を例にとって考えてみよう。世界が統一されれば、当然経済や政治の分野では共通言語が使われることになるだろう。そうなれば、おそらく地球上のほぼすべての言語は短い間に消え去ることになる。この時、消え去る言語の使用者の声は「永遠平和のために」という標語のもとに圧殺される。同じことがおそらくあらゆる局面で起こる。権力は一か所に集中し、少数派は押し黙るしかない。そうなると、正当な手段で自らの主張を訴えることのできない少数派は武力をもって蜂起することになるだろう。戦争は確かになくなるかもしれないが、絶えることのない内戦状態に突入することになるのである。永遠平和は文字通り有名無実なものとなるだろう。

だから永遠平和は国家の連合体制によって実現される必要がある。この連合体制のことをカントは「平和連盟」と呼んだ。平和連盟の役割は、諸国家の自由を維持し保証することである。諸国家同士の共同体が存在しない状態では、国家間に生じた何らかの軋轢を外交によって解決することがどうしてもできない場合(しばしば見る光景である)、最終的には戦争という手段が取られることになる。こうした時に、上位ではないが客観的な平和連盟がそうした軋轢を仲裁することで戦争を回避することができる。

補論 カントが示した「もう一つの墓場」

カントは両極端なものの境界に身を置いた哲学者であった。永遠平和の在り方についてもそのことは当てはまる。カントが「永遠平和のために」で示した「墓穴」は、一つは残虐な戦争行為の果てに人類が死滅することであった。主だって触れられてはいないが、カントはこの小論でもう一つの形の「墓穴」も示している。それがこの項で取り上げた完全な世界統一国家である。

先ほどはそもそも実現自体が難しいという理由でこの案を放棄したが、実はこの案が否定されるべき本質的な理由は別のところにある。もし完全な世界統一国家による永遠平和が実したとすれば、それはどのような状態だろうか。おそらく、その世界には一切の差異は存在しないだろう。全てが統一されるとはそういうことである。人類がこれまで積み上げてきた知識や文化は姿を消し、ただ「ある」ために「ある」世界である。人々は自身に与えられた役割をただこなし、一切の思考を放棄し日々を何の感慨もなく過ごしているだろう。この世界にそれ以上の進歩はない。なぜなら、そもそもそれ以上の進歩は必要ないし、なにより進歩は差異を生み出すからである。自由と文化が消滅した世界で、人は文字通り「生ける屍」へとなり果てる。

カントは、一つ一つの人格を尊敬し、自由を愛した人であった。カントにとっての人間とは、感性界と英知界の境界に属する存在者である。感性と理性の両方の特性を持つからこそ人は人として存在し、自由と多様性を持っている。したがって、極端に感性的になることが人間性の放棄ならば、極端に理性的になることもまた人間性の放棄なのである。だから世界統一国家は永遠平和のための「積極的な理念」であっても、人が人として平和を確立する手段ではないのである。

世界市民法

世界市民法は、個人と世界との関係を規定するものである。カントが世界市民法として提示したのは、「歓待の権利」である。これに関しては、カント自身の言葉を引用することが適切だろう。

「ここで歓待、すなわち<善きもてなし>というのは、外国人が他国の土地に足を踏みいれたというだけの理由で、その国の人から敵として扱われない権利をさす。その国の人は、外国から訪れた人が退去させられることで生命が危険にさらされない場合にかぎって、国外に退去させることはできる。しかし外国人がその場で平和的にふるまうかぎりは、彼を敵として扱ってはならない」

カント 『永遠平和のために』

要するに歓待の権利とは、人が自由に国家間を行き来することを保証するものである。国内法と国際法によって国家間の平和が実現されたとしても、ある人が外国で迫害を受けることがあるならば、それは平和な状態だとはいえない。世界市民法は、永遠平和の確保のための補足的な規定でありながら、しかし必然的なものなのである。

ただし、この権利はあくまで平和的に訪問することができる権利であり、客人としてもてなしを受ける権利ではない。外国を訪問する際に、例えば税金の免除や居住地の確保などの特権を要求することはできないのである。

カントがこの権利を考察するにあたって念頭に置いていたのは、西洋諸国による植民地政策である。当時西洋諸国はアフリカ、アジア、アメリカなどに訪問し、その軍事力を背景に征服あるいは不平等な特権を要求したのである。カントはこのような蛮行は許されるべきではないと考えていた。これは明らかに平和の障害となり得るものだからである。

永遠平和が実現するという保証はどこから来るのか

永遠平和を実現するための具体案として国内法、国際法、世界市民法という3つの次元から見てきたが、どれも現代に生きる僕たちの常識感覚に極めて近いものではないだろうか。カントが提示した国際的な連合組織と他国の訪問の自由は、いわゆる世界市民(コスモポリタン)的発想であるが、これはグローバリゼーションが進んだ現代において常識とされている枠組みである。このことからもわかる通り、しばしば永遠平和は哲学者が掲げる机上の空論とされることもあるが、現に世界はカントが掲げた具体案にほぼ近い形に向かって進んでいる(戦争の火種が常にくすぶり続けている現状を考えると、永遠平和への道のりはいまだ険しいが)。

ここまでの議論によって、永遠平和が一体どのようなものか、またそれを実現するために必要な具体案は何かが提示された。これに続いて、カントは永遠平和を保証するものについて述べる。これは永遠平和という概念の存在を基礎づけるものであり、永遠平和が実現するメカニズムについての哲学的考察である。

カントいわく、永遠平和を保証するものは「自然」である。永遠平和という究極目的は自然のメカニズムによって実現を保証されているのである。さらに、カントは人間こそが自然の最終目的であり、よって人間にとっての究極目標である永遠平和は自然の究極目標であるとさえ言う。

カントのこの見解は、一見これまでの議論とは矛盾するように見える。純粋理性批判および実践理性批判を通して行われた議論では、人間は自然の法則に規定されない純粋理性の力によって自由かつ道徳的に存在することができるとされていた。もし平和が自由でも道徳でもなく自然によって保証されているとすれば、これまでの議論は全て無効になってしまうのではないだろうか。

このような矛盾が生じているように見える理由は、カントにおける「自然」の概念が実践理性批判から永遠平和のためにまでに変遷しているからだ。カントは自然という語を様々な意味で使っていて、ときに読者はどのような意味でこの語が使われているのか混乱することがあるのである。

今回の場合の自然は、感性と理性を共に持つ両義的な存在者である人間を含めた、地球全体のことである。したがって、理性によって制御されるべき「自然の法則」とは全く意味が異なる。人間も含めた一つの秩序としての地球全体のことを、カントは「摂理﹅﹅」と呼んだ。

「われわれは目的に適ったこのありかたを、その作用法則が理解できないある原因による強制と考えれば運命と呼ぶことができるだろうし、世界の推移における目的を考えれば、摂理と呼ぶこともできる。この摂理とは、人類を客観的な究極目的を実現するために、この世界の推移をあらかじめ定めている高次な原因であり、深きところにひそむ叡智なのである」

カント 『永遠平和のために』

ここで言われている「目的」とは、もちろん永遠平和の実現のことである。カントは永遠平和の実現を、この世界によってあらかじめ決められている運命とさえ言い切るのである。自然は人類が永遠平和を実現するための巨大なメカニズムなのである。

このメカニズムは、様々な場面で発揮されていることがわかる。例えば、先ほどあげた共和制が戦争行為を抑止するメカニズムも、自然の摂理の一部だと言える。共和制では人々は利己的であればあるほど戦争というばくちに慎重になる。これはたとえ純粋理性の道徳命令がなかったとしても成り立つ。このことからもわかる通り、永遠平和は自然の摂理の中にメカニズムとして組み込まれているのである。

もう一つ例を出すと、「交易」や「商業」も道徳心を一切前提としない永遠平和実現のために自然に組み込まれたメカニズムである。なぜなら、商業は本質的に人間の利己心が基盤になっている活動であるが、しかしこれは戦争とは絶対に両立できないからである。戦争状態に陥っている国同士の間に商取引は成立しない。商取引が成立しなければ、長期的にその国は衰退していくことになる。現代であれば戦争状態に陥っている国以外は軍需産業によって潤う場合があるが、それはあくまで短期的なものであり、戦争状態が長引き戦争が拡大すればやがて世界全体の経済は回らなくなるだろう。第一次世界大戦後の西洋諸国が実際にそのような状態に陥ったことは歴史が示すとおりである。

道徳の逆説

カントの言う自然のメカニズムとは以上のようなものである。永遠平和に必要な条件である国内法、国際法、世界市民法についての議論にも共通するが、カントは永遠平和実現の弁証においてあれほど緻密に作り上げた「道徳」を持ち出さない。これはもちろん学問としての領域性もあるだろうが、たんに道徳を机の上で組み立てるだけでない「道徳の実践家」としてのカントを映し出している。巨大な理想を掲げながらも、カントは同時代を生きる人々に語りかけることをやめなかった。カントは理想が現実になることを望んでいた。そうなればいいと思っていた。またそれこそが哲学者の使命、すなわち暗きを啓く啓蒙の実践であることを知っていた。だからこそ、永遠平和という理想を道徳という理想によって弁証することはどうしてもできないのである。哲学的知識基盤を持たない普通の市民に対して永遠平和の必然性を確固たる確信を持って示すために、カントの平和論は逆説を持たざるを得ないのである。

永遠平和と道徳

確かにカントは道徳を用いて永遠平和を論証しない。しかし、「永遠平和のために」はやはり道徳を抜きには成り立たない。

そもそも永遠平和を望むこと自体が人間に普遍的に備わる道徳的関心である。人は大なり小なり平和の意識を持っている。それはおそらくもっとも純粋な普遍妥当的な道徳の声だろう。しかし人は感性的な存在者であるがゆえに差異を持ち、しばしばその主張が個別的事例において対立するのである。差異による対立をカントは否定しない。なぜなら、人間は両義的であるがゆえに人間なのであり、その両義的な存在者である人間をカントは愛した。

人間は感性と理性の両方を持っている。感性に由来する個別性と、理性に由来する普遍性、その両方を認めたうえで築かれるべき平和こそが、人が人として築くべき平和なのである。

両義的であるがゆえに、人は常に「どうすれば永遠平和を実現できるのか」ということを考え続ける必要がある。感性と理性のどちらかしか持ち合わせていなければ、人は思考する必要はなかったであろう。人はこの境界に立ちすくむ存在であり、両者からの声に引き裂かれている。引き裂かれているからこそ、善く生きるために自ら思考し判断する必要がある。引き裂かれた状態でなおもより善く生きるために常に思考を求められることが、人が持つ宿命と言えるかもしれない。

人が思考を続ける限り、永遠平和は自然のメカニズムによっていつの日か必ず実現する。しかしこの自然のメカニズムはあくまで永遠平和を「保証」するものであって、その実現を確約するものではない。その実現は、あくまで人間不断の努力に任されているのである。よって、人間は自ら考える必要があるのである。考えることをやめた時、すなわち人間が人間たることをやめた時、平和は墓場に実現するだろう。

結局のところ、「永遠平和のために」は概括すれば理想論の域を出ないだろう。隠すことなく皮肉を込めるほどだから、カントもそれは重々承知だったはずだ。しかしだからこそ、「永遠平和のために」は意味を失わない。理想は理想的であればあるほど現実の歪を浮き彫りにし、理性による啓蒙を促す力となる。理想を実現するための思考を続けること、これこそがカントが人類に求める努力なのである。

結び

いまこそ改めて宣言しよう。

「敢えて賢こかれ!自らの悟性を用いる勇気をもて!」

と。

人が思考を続ける限り、理想への歩みをやめない限り、永遠平和はいつの日か必ず実現する。

カントは思考する存在である人間を尊敬してやまなかった。考えることこそが人間が人間たる証であり、またどんなに辛く険しい道のりであっても強く一歩を踏み出し続ける原動力であることを知っていたからである。

その力は、僕たち一人一人に普遍的に備わっている。考えることをやめなければ、いつか理想は現実になる。それがすなわち「啓蒙」であり、いくら時代が変われども、唯一不変の道標なのである。

人はなぜ自分で考える必要があるのか。それは、考えることをやめた時人はその尊厳を失うからだ。考えることはすなわち自由と道徳に結びつき、そして自由と道徳は人が人としてより善い社会を作るために必要なのだ。人が考えなくなった時、自由と道徳は消失し、より善き社会への進歩の道は閉ざされ人は暗闇の墓穴に没することになるだろう。

参考文献)

カント (2011) 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 中山元訳,光文社
カント (1970) 『純粋理性批判(上)』 篠田英雄訳,岩波文庫
貫成人 (2007) 『カントー私は何を望みうるのか:批判哲学』 青灯社
石川文康 (2016) 『カント入門』 筑摩書房
石川文康 (2009) 『カントはこう考えたー人はなぜ「なぜと問うのか」』 筑摩書房
永井均 (2016) 『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』 筑摩書房

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です