後期近代における個人化と自己の分断

はじめに

ゼミでの自分、サークルでの自分、アルバイトでの自分、高校の同窓会での自分、就活での自分、家族の中での自分。多かれ少なかれ、僕たちは場面ごとに異なる自己像を使い分けて生活しています。みなさんにも心当たりはあるはずです。「複数の自己像を持つ個人」の登場を示す表象的な現象として、個人が複数のSNSアカウントを持つことが挙げられるかもしれません。発信する情報や発言のテンション、運用の目的に合わせてSNSで一定の領域性を持つ自己を「構築」することは日常的な行為になっていますし、このような自己を使い分ける振る舞いは受容されています。しかし、本来オープンに自分を表現するためのSNSで自己を構築する必要があることは、考えてみれば不思議な現象です。オープンであっていいはずの媒体で、自己は一定の領域に自閉してしまう。この現象はSNSの機能のみから説明することはできません。とすると、自己を使い分けるというこの現象はSNSに特有のものではなく、むしろ現実の社会を反映したものだと言えるでしょう。

それでは、なぜ僕たちは複数の自己を持つようになったのでしょうか。こうした現象は歴史的に見れば極めて新しいものです。現代的な意味での自己の使い分けがされ始めたのは、せいぜい20世紀の後半です。それ以前の時代には、複数の分断された自己を日常的に使い分けるなんてことはありませんでした。つまり、自己の断片化はここ数十年の間に起きた社会のパラダイムシフトに関連していると考えられます。ここで重要なのは、その場その場に合わせた自己像を構築し使い分けるという振る舞いは、社会の変動に伴い強迫的に個人に要求されるものになったということです。このメカニズムについては後程触れることになると思いますが、現代社会にはそのシステム内に個人が断片化するメカニズムが組み込まれています。好むと好まざるとにかかわらず、僕たちは外的な影響によって自己の分断をある程度強要されるような社会で生活しているのです。

その場その場のノリに合わせて自己矛盾を抱えずに社会を「乗りこなせて」いける人にとっては、これは何のリスクでもありません。むしろ、これまでのような伝統や権威による束縛のない社会で、途方もなく大きなチャンスを手にすることができるかもしれません。しかし問題は、多くの人にとって、限りなく断片化した自己を内在するということは極度の内的矛盾と葛藤を生み出すということです。ある状況に合わせて「自分のキャラクター」を設定することは社会生活を送る上で必須の技術になりましたが、しかしそもそも人はそのキャラクターを演じるために生きているわけではありません。アルバイトをしているからといって、あなたはアルバイトをするために生まれたわけではないでしょう。同じように、アルバイト用に作られた「キャラ」は、あなた自身ではなくあくまで「フィクショナルな自己」であるはずです。しかし現実に僕たちは、このような偽りの自分を通して社会生活を営んでいます。複数のフィクショナルな自己を演じ分ける中で、いつのまにか「本当の自分」は創られた「偽りの自分」の中に埋没してしまい、いざ「人生の意味」や「幸福とは何か」などの実存的問題に直面した際に人は身動きが取れなくなる。これが、現代における「危機」と言えるかもしれません。「自分とは何者か、自分は本当は何をしたいのか」。現代においてこの種の問いが「危機」或いは人間関係における「タブー」なのは、このような実存的問題に答え得る「本当の自分」が所在不明だからです。また、むしろこちらの側面の方が僕たちにとっては日常的かもしれませんが、実存的問題に直面せずとも、フィクショナルな自己を要求され続けた結果精神が疲弊し原因不明の不安に襲われることもあるでしょう。このような事態を、後に紹介するA.ギデンズは「存在論的不安」と呼び、近代、特に後期近代に特徴的な問題としました。

ここで、この問題に対する是正策には二つの方向性があります。一つ目は、唯一絶対的な自己を確立することです。これは、その場その場に適した自己像を構成することをやめ、「自分は自分」と言い切ってしまう方法です。複数の自己の間に矛盾な葛藤が生まれることが問題なのであれば、自己の中に単一の価値観を確立することは解決策として当然提示されるべきでしょう。二つ目の方向は、複数の判断基準を自己内に宿しながらも、それらの自己を統合する方法を模索することです。この時問題になるのは、異なる価値基準に基づいて形成された自己像同士をどう調和させるかという点です。本論では、この二つの道筋のうち後者の立場を検討することにします。前者の方法は、確かにシンプルかつ強力な処方箋です。しかしこの処方箋は現代において看過しえない副作用を伴うものです。唯一絶対の価値基準を基に単一の人格を形成した場合、その価値観に合わない他人格を排除してしまう危険性があります。これは、多様性の中での共生が求められるコスモポリタン化する現代にふさわしい態度ではありません。「自分は自分」という態度は容易に「自分さえよければ」というエゴイズムに変容します。したがって、多様性を排除しない共生可能な社会を形作っていくためには、相対する価値を内包しながらも、自己を統一していく方向を模索する必要があるのです。

本論は、このような後期近代に特有の問題を「価値相対性」をキーワードにして論じていきます。自己に内面化された諸価値同士の相対性を認めたうえで、自己統合の可能性を明らかにしていきます。

第一章 価値相対主義とは何か

価値相対主義とは、判断の基準になっている価値は個人の感情、意欲、信念に依存して相対的に存在しているものだとする主張です。まず、そもそも相対主義とはどのようなもので、また相対主義が帰結する問題とはどのようなものなのでしょうか。自己に内在する複数の価値の相対性を論じるために、一般的な相対主義の意味合いとその問題を明確にしましょう。

このような状況を想定してみます。ある難民キャンプに日本人スタッフが医療活動のために派遣されました。ある時、この難民キャンプにイスラム教徒の若い女性が背中の腫瘍の治療のためにやってきました。ところが、治療を行おうとした日本人男性医師に対して彼女は異性に素肌を見せることはできないと言って診察を拒否してしまいます。やむなく彼は、他の女性スタッフから口頭で患部の様子を聞きました。彼は念のため切開をしたほうがよいと判断し彼女に手術を勧めます。しかし、彼女は異教徒の異性の手で処置されることを容認できず、結局何の手当もしないままキャンプを去っていきました。

日本における近代医療の価値基準では、「患者の命を救う」ことは絶対的かつ自明の正義です。しかし、思想や文化が異なれば、それは絶対的でも自明でもありません。ではこの時、彼女の態度を無視して手術を強制的に受けさせるべきなのでしょうか、それとも、彼女の依拠する価値観を尊重して沈黙するべきなのでしょうか。

このジレンマは、異なる価値基準同士が向かい合った際に陥る問題の典型です。すなわち、自分自身の価値観を絶対的なものとして相手に押し付けるのか、あるいはすべての価値基準は相対的であるがゆえに理解不可能なものとして沈黙するのか、相対主義の世界ではこのような二者択一を常に迫られるのです。もちろん、現実社会での対立はより重層的で複雑です。日常生活での意思決定を問題にするのであれば妥協や合意を形成することは十分可能でしょう。しかし、ひとたび各個人の究極の立場決定に関わるような対立すなわち実存レベルでの対立が発生した際には、僕たちは往々にしてこの暴力的な二者択一のどちらかを選択する必要に迫られます。例えば、生や死、あるいは自己アイデンティティに関わる問題などがそれにあたります。そして本論で問題にしているのは。まさにこうした類の価値対立なのです。

価値観の強要か、理解不可能の沈黙か。二つの選択肢に直面したときに、そもそもこの対立自体が相対主義という条件を前提にして発生しているものであるため、より本質的な問題は後者にあります。相対化され価値同士の序列が消失した際に生じこのような問題は、「共約不可能性のテーゼ」として定式化されています。これはアメリカの科学史家T.クーンが提唱した概念で、異なる理論体系で構築された価値間には両者を橋渡しする共通基盤が存在しないため価値同士の相互理解は原理的に不可能であるというアイデアです。「共約不可能のテーゼ」に従うならば、出自の異なる価値同士が合意に至ることは不可能ということになります。実践レベルでこのような対立が生じた場合、異なる価値観は相互独立したままあらゆるコミュニケーション可能性が断絶し、「判断停止」状態に陥ることになるでしょう。

相対主義につきまとうこの問題が、後期近代には特有の形で表れています。後期近代における相対性の問題の特徴を掴むために、まずはその史的文脈を探ります。相対主義は歴史の中でたびたび姿を現してきましたが、現代との連関において意義深いのは、18世紀から19世紀にかけて西洋世界で起こった相対化でしょう。この時代は産業革命と民主革命という二つの大きな社会変動を経験しました。そして、このような急激な変動の中で解体され、再秩序化されていく社会を、「価値」という側面から分析したのがM.ウェーバーです。ウェーバーの理論は現代における社会変動を捉える枠組みとしての有効性を失っていません。次節では、ウェーバーに則り相対化の文脈を確認していきます。

第二章 「第一の近代」とM.ウェーバー

第一節 西洋の近代化

ウェーバーが生きた当時の西洋世界は、近代の「入り口」とも言うべき時代でした。現代社会を基礎づけている社会体制の原型のほとんどがおおよそこの時代に形作られていったと言っても過言ではないでしょう。近代における社会変動については概括的に述べるにとどめますが、本章において特に重要な概念は「合理化」とそれに伴う「個人化」です。この二つの概念は現代社会を語るうえでのキータームですが、現代的な意義を持ってこれらの概念が登場したのはやはり近代です。

西欧世界における近代化の契機となったのは、互いに対をなす二つの変革です。二つの変革とは、イギリスを中心に起こった産業革命とフランスを中心に起こった民主革命を指します。ほぼ同時期に発生した二つの大変革は、いずれもその発端となった場所から西欧世界全体に広がり、やがて西欧世界全体の産業資本主義化を促しました。異なる領域における二つの革命が世界にもたらした影響は絶大でした。変革の時代を通して、それまで社会を成り立たせていた枠組みは解体し、人々は新たな社会システムに再編入されていくことになります。こうして再秩序化された社会の特徴は、もちろん様々な権益集団は存在していたとはいえ、一部の特権階級ではなく圧倒的多数を占める大衆が政治や経済の中心に躍り出たということです。社会学が照準する、「大衆社会」の誕生です。産業資本主義を基盤とする大衆社会は、それ以前の社会とは本質的に異なった性質を持っています。この特徴とはすなわち「合理化」と「個人化」です。

第二節 「合理化」から「個人化」への軌跡

ウェーバーにおける「合理化」という概念は非常に多義的ですが、おおむね非合理的な伝統や文化に代わって科学と合理的な思考様式によって社会が形作られていくことを指します。ウェーバー自身の合理化の定義を、彼の晩年の講演「職業としての学問」から引用してみます。

「このことは、魔法からの世界解放ということにほかならない。こんにち、われわれはもはやこうした神秘的な力を信じた未開人のように呪術に訴えて精霊を鎮めたり、祈ったりする必要はない。技術と予測がそのかわりをつとめるのである。そして、なによりもまずこのことが合理化の意味にほかならない。」

「技術」と「予測」とは要するに科学的技術と官僚的システムのことですが、この二つの合理性は資本主義社会における本質的要素です。ところで、このような社会の合理化はそれまで人々の共通価値の源泉であった村落共同体や教会、また王権などによる非合理的な伝統的支配体制の解体をもたらしました。合理化の結果全体として見たときの富が増大する一方、社会における普遍的な共通価値は消失します。共通価値の存在しない社会で、人々は自分自身のよって立つ究極的な価値基盤を選択しなければなりません。この意味で、近代がもたらした資本主義社会は「個人化」する宿命にあるのです。あらゆるものが個人の選択の対象になることがすなわち個人化ですが、これは、個人が各々の価値基準に従って判断することを求められるため「価値相対主義化」とも言えるでしょう。

このような合理的な資本主義社会の形成過程を宗教という側面から論じたウェーバーの著作が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」です。この著作の中で論じられた議論について、産業的側面を交えながら簡単に紹介しようと思います。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、「資本主義」という西欧に特有のシステムが一体どのようにして生まれたのかについて論じられたウェーバーの代表著作です。結論から先に言うと、資本主義をもたらしたのはプロテスタンティズム的な精神です。資本主義をもたらしたプロテスタンティズムの精神をウェーバーは「資本主義の精神」と呼びますが、この精神とはどのようなものなのでしょうか。16世紀から17世紀の早い段階にかけて資本主義が発達したオランダ、イギリス、フランスなどは、宗教改革者ルターに端を発するプロテスタント信仰、その中でも特にカルヴァン派、が盛んな地域でした。カルヴァニズムの特徴は、最後の審判時に救われる人は世界が想像するより前に神によって定められている、従って自分自身が救われるか否かを人間は変えることもできないしまた知ることもできないとする「予定説」が教義の基盤になっているという点です。この教えは、伝統的教会すなわちカトリック教会における信仰とは根本的に異なります。カトリック教会では人は現世において様々な善行を積むことによって救いを得られるとされています。教会によって定められた善行とは、例えば免罪符の購入や儀礼への参加などといったものです。一方、救いはあらかじめ「予定されている」ものとするカルヴァニズムの人々にとって、現世での行いは全く関係ありません。彼らができることは、ただひたすらに神を信じることのみです。「自分自身の運命は始めから定められている」という教えは信者にとって絶望的なものです。自分自身の救いを保証してくれるものは何もありません。救われるか否か何によっても保証されない以上、信徒にとっての問題は如何にして「救いの確信」を得られるかどうかという内面的なものになっていきます。この「救いの確信」を得るための手段とされたのが、職業労働への従事なのです。職業労働によって富を得ることができるということは、それだけ自分は神が造った世界に適合しているということではないか。だから、勤勉に働いて富を得ることが「救いの確信」に繋がるのだ。このように、カルヴァン派の人々は職業労働への意欲をきわめて強迫的に内面化しました。「救いの確信」を得るために、仕事は徹底的に合理化され、またそれによって得られた富はさらなる富を得るために使われる、すなわち事業を拡大するために投資されることになります。このようなプロテスタントが持つ強迫的な勤労精神が資本主義を生み出す原動力になったのです。

以上に述べた資本主義形成のメカニズムは必然的に個人化を伴います。第一に、プロテスタントを勤労に向かわせているのは、「救いの確信」という極めて内面的な情動です。特に予定説の立場を取るカルヴァン派では、救われるか否かはすでに予定されていることなので、教会への寄付や聖職者への懺悔など宗教儀式を行うことに意味はありません。自らの魂の救いの確信は自ら探求するしかなく、基本的に聖職者や教会など自分自身の外部への依存は弱まっていきます。従って、教会が人々の生活に指針を与えていた中世的な伝統的体制を解体され、人々の判断基準は自身の内面に根ざしたものになっていくのです。第二に、社会全体が合理化されていくにつれて職業は専門分化します。個人が特定の職能に熟練し、そして異なる職能を持った個人同士が分業することは合理的な生産手段です。また、そもそも産業革命期に生まれた様々な技術や仕組みを個人が全て把握することはできません。技術が発展するにつれて、分業体制もより複雑になっていきます。分業体制によって複雑化した社会において、個人は特定の知識・技能領域に特化した存在になります。こうした職能の領域性による社会の分断も、個人が依拠する価値基準がより閉じられたものになっていく主要な要因の一つに数えられます。

このように、近代における合理化過程は必然的に個人の価値相対化を招きます。それ以前の社会を形作っていた普遍的絶対的価値基準は合理化とともに解体され、「倫理」や「価値」といったものは個人の内面に属するものになったのです。しかし、社会に絶対的な共通価値が存在しないとすれば、人々はどのようにして相互理解や実存的問題における合意が可能になるのでしょうか。これはつまり前章で述べた価値相対主義に伴う共約不可能性の問題です。ウェーバーは、ある意味でこの問題について生涯考え続けた学者でした。共通基盤の存在しないバラバラな価値観を持つ人同士がどうすればより良い社会を作っていけるのか。次節ではこの問題について見ていきます。

第三節 価値同士の「闘争」モデル

異なる価値観同士の対立を、ウェーバーは「神々の争い」という言葉で言い表しました。絶対的基準なき世界では、価値はその価値を「信仰」する人によってのみ価値づけれられます。この意味で、価値同士の対立はまさに絶対的基準のないゆえに終わりなき神々の戦いなのです。評価基準のない価値同士の対立をどのように調停すればよいのか。ウェーバーの解答は、相対する価値同士はまさに「争う」ことによってのみ相互理解が可能であるというものでした。価値同士が争うことによって相互理解が可能とはどういうことなのか、理論面と実践面に分けて見ていきます

理論における価値同士の調停は「価値討議」によって可能となります。価値討議とは、意味ある行為をめぐる「価値判断」を批判的に検討することで、討議の当事者同士が対立する相手の価値に対して何らかの態度をとれるようにしむけることです。まず、そもそもこの場合における「価値」とはなんなのでしょうか。ウェーバーにとっての「価値」とは、人々に何らかの行為を促す主観的要素のことです。つまり「価値」とは「行為」に結びつくものであり、人は行為することによって自らの価値を表明しているのです。そして、外的な表象として現れる行為は必ずなんらかの「目的」のもと「手段」として行われます。だとすれば、各人が持つ究極的な価値がどのようなものであれ、それによって表出される行為が「目的」と「手段」の範疇に属するものであるならば、異なる価値観を持つ人でもその行為を批判的に検討することができるでしょう。例えば、ある部族に自分の仲間が病気にかかったときに神に祈祷を捧げる風習があったとします。このような行為の価値観を理解することはできないかもしれませんが、しかし「病人の治療」のために「祈祷」が行われているという因果関係を把握することはできます。因果関係さえ把握できれば、価値観を理解せずともその行為に対して何らかの批判を加えうるのです。同じように、異なる価値観同士がぶつかり合う際には、当事者同士がお互いの行為を因果関係に照らし合わせて「説明的に解釈」することによって合意に達することは十分可能でしょう。「価値討議」の意義は、このように行為の「理解的説明」によってお互いの価値を評定しあい、その上で何らかの判断を下す点にあります。究極的な実存基盤である価値同士は妥協しあえずとも、しかし行為の水準においては相互理解の道は開かれているのです。

実践的議論においては、複数の異なる価値観を持つ者同士が一つの社会を形作るために、ウェーバーは議会にこの機能を託しました。様々な価値観を持つ者同士の相互理解は、「争い」によってしかありえません。この「争い」を正当かつ有意義に行うためには、意思決定に関わる全ての人が参加可能な議会がどうしても必要になります。議会において異なる価値観を持った人同士が議論と妥協を行うことによってのみ、社会は複数の意志を内在しながら成立することが可能となるのです、

以上、近代における「合理化」と「個人化」の過程および、伝統から解き放たれた個人がいかにして社会を形成していけるのかをウェーバーに即して見てきました。近代社会の幕開けとなったこの時代のことを、ドイツの社会学者U.ベックは「第一の近代」として「第二の近代」である現代と区別しましたが、「第一の」「第二の」という区別は、この時代における社会変動と現代における社会変動が連続していることを示しています。次章では僕たちが生きる「第二の近代」についてA.ギデンズの議論を参照しながら見ていきます。ここでは、第一の近代においてウェーバーが直面した価値相対性と相互理解の問題は、より発展した形で現代に現れることになります。

第三章 「第二の近代」とA.ギデンズ,U.ベック

第一節 第二の近代化

僕たちが生きる現代社会は、本質的に第一の近代と連続しています。現代は、近代において進行した合理化と個人化がより徹底された社会です。しかし、根本的な部分で通底しつつも、現代社会はそのダイナミズムやリスクの大きさにおいて先行するいかなる社会秩序とも一線を画しています。第一の近代においてそうだったように、現代社会の制度的性格は直接的に個人の生活に、僕たちが日常的に感じるよりずっと強く結びついています。A.ギデンズの議論に従って、まずは後期近代社会が持つ性格について論じます。

国民国家体制を基盤にした産業資本主義社会というのが、後期近代の最も大雑把な理解です。この次元においては、後期近代は第一の近代に生まれた社会システムを基本的には引き継いでいると言えるでしょう。しかし、社会の「極端なダイナミズム」が後期近代を先行するいかなる近代社会からも区別しています。社会変動のペースだけでなく、変動がもたらす影響の範囲と深度においても、後期近代は極めて特徴的です。つまり、僕たちは制度や生活様式などあらゆる生活上の社会的側面が簡単に変化してしまう、極めて流動性の高い社会で生活しているのです。

ギデンズは後期近代に特有のダイナミズムを、三つの要素から考察します。三つの要素とは、① 時間と空間の分離、② 社会制度の脱埋め込み、③ 徹底した再帰性です。第一の「時間と空間の分離」は、全世界で統一された時間軸の発明によって地球全体が時間と空間の規定によらずに結びつくということです。それ以前の社会においては、「時間」は「空間」と直接結びついており、ある場所で有効な時間軸は他の場所においては全く意味を持ちませんでした。例えば、標準化された時間システムの存在しない世界において、日本における「朝」という時間概念は地球の反対側では全く通用しません。根本的な時間軸が異なる以上、時間が空間に結びついている世界において時間軸の異なる行為者同士が共同作業を行うことは不可能です。したがって、時間の統一以前には、社会は同じ時間感覚の通用する範囲でしか成立しませんでした。しかし、ひとたび「機械の時計」が正確無比に時間を刻み始めると事情は一変します。機械の時計は一日の時間を正確に計測することで時間を秩序化し、そして地球規模で普遍的な時間軸を設定しました。これによって時間は空間という規定を離れて存在できるようになったのです。今や、地球の裏側だろうとその気になりさえすれば協働することができます。現代的な意味での時間規定と空間規定の存在しない協働が可能になったのは情報技術の革命的進歩以降ですが、こうして個人の「生きることのできる世界」は劇的に拡大することになったのです。

時間と空間の分離は、後期近代の第二の特徴である「社会制度の脱埋め込み」の進行の基盤になりました。「脱埋め込み」とは、前章で論じたように、個人がそれまで何の疑いもなく従っていた社会制度や生活様式から解き放たれることです。近代の場合、「脱埋め込み」は絶対王政や伝統教会などによる伝統的支配からの解き放ちを意味していました。後期近代においても、この過程はさらに徹底的に社会に適用されます。ギデンズは後期近代における脱埋め込みに関連するメカニズムとして、「象徴的通標」と「専門家システム」の二つを提示します。「象徴的通標」とは標準的な価値を持った交換メディアのことであり、ようするに貨幣のことです。もちろん貨幣は近代以前の社会にも様々な形で普及していましたが、現代における貨幣システムはあらゆる意味で洗練され、成熟しています。貨幣による社会への影響は多岐にわたりますが、ギデンズが特に注目するのは貨幣がもつ「時間と空間を括弧に入れる」機能です。貨幣は地球上のほぼすべての地域において効力を発揮する万能薬です。貨幣による取引は、もはや空間と時間による規定を受けません。従って、貨幣による交換メカニズムは個人をあらゆる共同体から解放します。「専門家システム」とは、より一般的な用語を用いて説明するならば、「高度に専門分化した分業体制」のことです。僕たちは、僕たちの生活がどのようにして成り立っているのかほとんど知りませんし、また知る必要もありません。例えば、なぜ蛇口をひねれば水が出るのか、なぜスイッチを押せば電気がつくのか、コンピューターがどのようにして動いているのかなど、少し想像力を働かせればいかに僕たちは僕たち自身の生活について無知なのかを自覚するでしょう。全ての生活基盤は専門知識によって基礎づけられているはずなのに、社会が徹底的に専門分化した結果、僕たちにとって技術はもはや何の因果関係もなく所与のものとして現前するものとなりました。この意味で、専門家システムもまた社会関係を前後の脈絡から切り離していく脱埋め込みに加担しています。

最後の「制度的再帰性」とは、後期近代の脱埋め込みメカニズムをその背景に、あらゆる社会生活の基盤が当の社会生活自身によってのみ根拠づけられる事態を指しています。「近代の社会生活の有す再帰性は、社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていくという事実に見出すこと」ができます。伝統的社会では、諸々の社会的行為は「自分がこの行為を行うのは、先祖代々に決まっているからだ」という風に「過去」によって根拠づけることができました。また、仮に伝統的行為になんらかの変更を加える場合であっても、それは「過去」を基軸に「現在」との対比によって根拠づけることができます。しかし、このような伝統や慣習から徹底的に脱埋め込みされた後期近代では、このような形で自己を根拠づけることはできません。したがって、何らかの社会制度の変革も当の社会自身への再帰的な眼差しによってのみ可能なのです。

以上の三つの要素が、ギデンズが措定する後期近代における極端な流動性を示すメカニズムです。三つのメカニズムを総覧したときに、その根底に第一の近代における変動を特徴づけていた「合理化」と「個人化」が潜んでいることを発見できます。「時間と空間の分離」および「社会制度の脱埋め込み」はいずれも産業資本主義化過程における合理化が帰結するものです。「時間と空間の分離」および「社会制度の脱埋め込み」を背景とする「徹底した再帰性」は、あらゆる社会制度の根拠づけがそれ自身に閉じられていく過程を示していました。この概念は、自分自身の究極の立場決定の根拠を自己以外に求めることができなくなるという意味で社会制度そのものの相対化を示しているとも解釈可能です。次節では、後期近代を特徴づけているこれらのメカニズムがどのように個人に影響していくのかについて、U.ベックの議論を紹介します。

第二節 「フィクショナル」な自己

第二の近代における個人と特徴を把握するため、まず第一の近代における個人化との比較を行います。その後、第二の近代における個人の在り方について明らかにしていきます。

先ほど論じたように、第一の近代における「近代化」は人々を伝統や慣習から解き放ちました。しかし、非合理的な体制から「脱埋め込み」された第一の近代の人々は、合理化の過程で階級や階層、家族、職能集団などの中間集団へ「再埋め込み」されました。近代化の力によって伝統的共同体から解き放たれた「大衆」は、産業化に伴い成長した大企業が準備した安定的な雇用システムを背景に都市圏において巨大な労働者集団を形成したのです。そして、男性賃金労働者が長期にわたり家族を養うだけの賃金を保証されたことにより、近代的な家族共同体が生まれます。社会の多数を占めた労働者階級のライフコースは画一化されていき、人々は労働者階級というアイデンティティを新たに付与されることになったのです。また、第一の近代において新たに固定化された社会制度として国民国家体制を挙げることもできるでしょう。国民国家体制の下では、ある一定の領土内において生産や消費が営まれ、またコントロールされます。安定した経済成長に支えられた国民国家は福祉国家でもあり、家族や企業を様々なリスクから守っていました。

第二の近代化は、このような中間集団や国民国家体制すらも解体します。ギデンズが言うように、後期近代は極端なダイナミズムを特徴とする社会です。この極端なダイナミズムが中間集団の解体を促すメカニズムは多岐に渡るためここでは触れませんが、しかし先ほども述べたように第一の近代以上に徹底された合理化過程がその背景にあるのは間違いないでしょう。安定的な雇用と経済成長を基盤にした中間集団の解体は、国民国家の弱体化も促します。また、今日進展するグローバル化は国境を超えて世界を結びつけており、国民国家という枠組みそれ自体の影響力も低下しつつあります。

つまり、第二の近代は第一の近代における解放と再秩序化の結果生まれた新たな共同体からも人々を「脱埋め込み」したのです。後期近代における「脱埋め込み」は、もはや「再埋め込み」されることはありません。個人は社会と直接結びつけられることになり、しかもその社会はグローバル化と専門分化によって限りなく広大かつ複雑な社会です。広大かつ複雑で、しかも極端な流動性を持つ社会において、新たな共同体が形成される可能性は限りなく望み薄でしょう。あらゆる共同体から解放された個人、この場合の個人は本当の意味での個人と言えるでしょうが、は自分の人生を自分で選択することが可能になりましたが、しかし複雑になりすぎた現代社会において一個人が自分自身の人生をコントロールすることは不可能です。拠って立つべき絶対的普遍的価値基準はすでに崩壊し、かといって自身に外在する価値を追い求めてもそれを得られる保証は存在しない。この意味で、第二の近代を生きる個人は自己再帰的な個人です。つまり、個人は自身の依拠する価値を当の自分自身によって構築し維持し続けていることを迫られているのです。

それ以前の時代からは断絶したこのような再帰的な自己構築の強要は、当然自己アイデンティティそのものの在り方も変容させます。あらゆる外的価値が解体した以上、個人に所与のものとして不変不動の価値基準が与えられることはないため、個人は自分自身を構築していく必要があると先ほど述べました。つまり、個人が持つ認識的自己像は限りなくフィクショナルなもの、すなわち「創られた自己」としてしか存在できなくなったのです。このようなフィクショナルな自己像のことをベックは「準主体」と名づけました。準主体は、自分自身について「自分は何者で、どのようにして現在の自分になったのか」という自分語りによってそのつど構成されます。この準主体が自己アイデンティティとして正常な機能を果たすためには、その自己像が自身を取り巻く環境に対して適応的かつその自己像の基になる「自分の物語」がある程度統一されたものである必要があります。このような人物の場合、自分自身の外面的生活と内面の自己像が一致しているため、自分自身への再帰的なモニタリングを経たうえでも自己が「生きている」という感覚を支える十分な自尊心を持つことが可能でしょう。逆に、自分の人生に統一的な「物語」を見出せない人にとって、「創られた自己アイデンティティ」は内的矛盾の源泉になります。相互独立的で一貫性を見出せない生活経験が生み出す自己像は、それを根拠づけるはずの自分の物語がひどく脆弱なため、極度の「存在論的不安」をもたらすことになります。存在論的不安とは、外部の出来事によって呑み込まれ、押しつぶされ、圧倒されるような不安を感じたり、自分自身の人生は全くの無意味だと感じられるなど、様々な精神の病理に繋がります。困ったことに、そもそも個人がフィクショナルな自己像を構築しなければならなくなったのは社会における流動性が急激に高まったからであり、その意味で、この過程において「正常な自己アイデンティティ」を確立するということは原理的な矛盾をはらんでしまっています。もちろん、自己の自己決定性は個人にとってリスクではありますが、チャンスでもあります。自己像をうまく使い分け、内的葛藤と折り合いをつけながら人生を舵取りしていくことが可能ならば、それ以前の時代には考えられなかったほどのあらゆる可能性が一個人の目の前に開かれているでしょう。しかし、おそらく大多数の人は、フィクショナルな自己像がもたらす内的葛藤によって抗いがたい精神的な不安を抱えることになるでしょう。

第三節 複数の自己と実存的問題

これまで後期近代社会がもたらす自己の問題について見てきました。ここで、やっと本論で問題にしていた断片化した自己像について論じることができます。もうお気づきかと思いますが、個人が複数の「キャラクター」を使い分けるようになったのは、前節で論じた「フィクションとして再帰的に構築される自己」に関連しています。自らの経験によって自己アイデンティティが構築されていくという主体の在り方は、後期近代における極端なダイナミズムの中でその場その場に合わせて適した自己像を構築し使い分けるという適応戦略に転じたのです。複雑に専門分化した現代社会の中で、僕たちは複数の異なった社会領域に属して生活しています。ゼミであったりサークルであったりアルバイトであったり、異なる文脈で求められる判断能力やコミュニケーション方式などの価値基準は全く異なります。したがって、個人が全く異なる価値領域に偏在する時代において、統一的な生活経験に基づいた確固たる自己アイデンティティを形成することは限りなく困難です。この社会に適応するためには、個人は複数の全く異なる価値基準を自身の内に内面化させその場に適した振る舞いを行うしかありません。これは、人間にとって最も神聖かつ根源的な問題であるはずの価値基準形成過程が、社会的条件の側に従属してしまったと言えるかもしれません。この変化は不可逆的であり、今後ますます加速することこそあれ後退することはないでしょう。

ここで問題になるのが、統一的で強力な自我なき個人がいかに実存的な判断を下し得るかということです。この場合の実存的判断とは、自分の人生の「意味」や「価値」などに関わる究極的な判断のことです。例えば、大学や就職先の決定はその後のライフコースに大きな影響を与えるため個人が迫られる実存的判断の典型例でしょう。複数の価値基準を内面化しその状況に適した振る舞いをするという適応行動は日常的な社会生活を営む上では何の問題もないかもしれません。しかし、フィクショナルな自己はその場に応じて作られた自己像であるため、それ単体では実存的問題に答えることができません。したがって、現代を生きる個人はふとした瞬間に呼び起こされる実存的問題によって常に脅かされているのです。

ただ、だからといって様々な社会的価値領域において形作られた自己が、自我にとってまったくの虚構かと言えばそうではないはずです。確かに僕たちはある程度意識的に「フィクショナルなキャラ作り」を行っていますが、しかし、その場に適した振る舞いを身につけるということは極めて社会的な行為であり、自分とは異なる価値領域に接触しその価値観を受容する過程で様々な知識や体験を蓄積することができます。異なる価値への適応は自動的に行われるものではなく、個人は主体的に未知の領域で挑戦することが求められます。それは、個人の消極的な社会への従属というよりむしろ、より積極的な社会への参画なのです。不可逆的な地球規模での極端なダイナミズムの拡大は、一方で個人をリスク社会へと誘いますが、一方で価値観の異なる世界中の人々が対等な立場でコミュニケーションすることを可能にしす。自己の分断は積極的な意味での「価値への適応」とする捉え方も故無きことではありません。この態度は確かに先行するいかなる社会にも見られなかった個人の社会への適応行動です。だからこそ、いかなる時代にも不可能だった新しい個人―社会の関係が僕たちの前に開かれていると言うことができるでしょう。

断片化する自己に積極的な意味を付与した時に、実存的問題を前にした時の困惑は、個人に内在する複数の自己像が依拠する価値同士が「共約不能状態」に陥っているからだと捉え直すことができます。先に論じたように、異なる体系の下で成立した価値同士は実存的判断においては必然的に理解不能に陥ります。だとすれば、ここで問題になるのは、いかにして相対的な価値同士を統合するのかということになるでしょう。

第四章 分断された自己の統合は可能か

第一節 「内面の議会」による自己の調停

本論では、近代化とそれに伴う個人の問題について論じてきました。これまでの議論によって、断片化した個人が実存的問題に直面した際に「判断停止」状態に陥ってしまうという問題が明らかになりました。本章では、ウェーバーが示した「価値討議」という相互理解の方法を用いてこの問題の解決を試みることで結論としたいと思います。

ウェーバーの時代において問題になっていた価値相対性の問題とは、伝統から解き放たれた共通規範なき個人がいかにして一つの社会を形成できるのかというものでした。つまり、「社会」という領域内で「異なる価値観を持った個人」をいかにして統合するかという問題です。これに対するウェーバーの解答は、価値討議による価値観同士の調停でした。このモデルを個人に当てはめることで、自己の内的矛盾を克服することができるのではないでしょうか。これは、価値討議という相互理解の方法を個人の内面に適用するというアイデアです。個人における価値討議とは、「個人」という領域内で「異なる価値観を持った自己像」同士を批判的に検討し、実践的判断における合意を生み出すということになるでしょう。これによって、自己内に複数の価値基準を内在したまま実存的問題にも答え得る判断を導くことが可能なのではないでしょうか。かつてウェーバーは「複数の意志の空間」を「議会」によって統合しようとしたように、現代において分断される個人も、個人内の「複数の意志の空間」を「内面の議会」によって統合していく。もはや外的な基準に依拠することができない現代の再帰的な個人にとっては、いずれにせよ、何らかの形で内面の価値観同士を調停していく試みが求められているように思えます。

第二節 「内面の議会」における客観性の確保

「内面の議会」における自己調停を行う際に問題になるのが、いかにして判断の「客観性」を確保するのかという点です。「社会」における「個人」同士の価値討議においては、討議される価値は別々の当事者に属するものであるため、当事者同士の関係において主体と客体の関係性は担保されています。また、討議は言説によって行われるため第三者による判定も可能です。「内面の議会」には、このような主体と客体の関係性は存在しません。もちろん価値同士の討議を行った末に最終的に下される判断は主観的なものですが、価値討議という形式を用いて自己の統合を図る以上、やはり判断の客観性については考察されてしかるべきです。

自己内で価値討議を完結させるために必要な客観性は、自己の内に客観的人格を形成することによってのみ担保されうるのではないでしょうか。この客観的人格は、社会生活において形成された価値同士を自己内において批判的に認識する役割を果たすものです。また、実存的問題に直面した際には価値同士の討議を内面において対象化し、批判的に検討します。「フィクショナルな自己像」を超越論的に認知する客観人格という意味では、この人格はG.H.ミードにおける「主我」概念に近接するものではありますが、しかしこの客観人格の役割はあくまで自己像同士の調停であり、「フィクショナルな自己」の上位でこれらを統合する概念ではありません。むしろ、あらゆる自己像の最下位に位置し、それぞれの価値同士の討議の場を用意する機能なのです。このような客観的人格の形成についてはここでは踏み込みません。いずれにせよ「内面の議会」における客観性の確保についてはさらなる検討が必要になると思います。

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