「資本主義(capitalism)とは何か」。いざこの疑問を投げかけられた時に素早く答えられるだろうか。一つの解答を『共産党宣言』の中から引いてみよう。「ブルジョア社会においては、資本は独立で、人格であり、これに対して活動する個人は非独立で、非人格である」。ここで言うブルジョア社会とは資本主義社会のことであると解して構わない。つまり、「資本」が「個人」に優越する社会、それが資本主義社会である。マルクスは資本主義に対する最大の批判者の一人であった。そしてその主張が簡潔に述べられているのが『共産党宣言』である。この小論は学術的というよりも感情的・説得的であるが、それゆえその主張を概括することは容易い。少しだけ、中を覗いてみよう。
あらゆる歴史は階級闘争の歴史であるとマルクスは冒頭部分で述べる。そして現代において階級はブルジョアとプロレタリアに二分化しているとする。それぞれの定義について、共著者であるエンゲルスが記した注釈がある。「ブルジョア階級とは、近代的資本家階級を意味する。すなわち、社会的生産の諸手段の所有者にして賃金労働者の雇用者である階級である。プロレタリア階級とは、自分自身の生産手段をもたないので、生きるためには自分の労働力を売ることをしいられる近代賃金労働者の階級を意味する」。この二つの階級はやがて全面的な闘争へと至り、そして必然的にプロレタリア階級が勝利するだろう。これが、この小さな論文に述べられていることの全てである。
まずはブルジョア階級がどのように発生したのかについて簡単に述べられる。ブルジョア階級の原型は、中世都市の城外市民であった。この時の生産様式は封建的もしくはギルド的手工業である。16世紀以降、商業・航海術・工業などが飛躍的に発展すると、これまでには考えられなかったような巨大な規模の市場と需要が開拓されていった。封建的・ギルド的経営様式では、もはや増大する市場と需要に応えることができなくなり、工場手工業がそれに代わるようになった。さらに蒸気機関が開発されて以降はこの体制すら不十分なものとなり、近代的大工業があらわれた。大規模な機械と多数の労働者を必要とする近代的工場の創業には巨大な資本が必要となる。このような巨大資本を持つ階級がすなわち資本家であり近代ブルジョアである。ブルジョア階級は技術の発展とともにあり、そして現在では明らかに社会の支配層を形成している。
近代的ブルジョア階級は社会に何をもたらしたのか。曰く、ブルジョア階級は、封建的な、家父長的な、牧歌的ないっさいの関係を破壊した。人間と人間とのあいだの関係を「現金勘定」に置換し、氷のように冷たい利己的な打算的なものに貶めた。
曰く、ブルジョア階級は、全社会関係を絶えず革命していなくては生存しえない不安定なものに変えてしまった。自分の生産物の販路をつねにますます拡大しようという欲望に駆り立てられ、彼らは地球をかけまわる。資本主義は、常に変革し続けなければ窒息して機能停止に追い込まれるからだ。
曰く、ブルジョア階級は、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも、文明のなかへ引き入れる。交易の原理の下に地球全体を覆いつくす資本主義において、民族的一面性や偏狭は不可能である。彼らは全ての民族をして、もし滅亡したくないならブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。この変化は強制である。
曰く、ブルジョア階級は、農村を都市の支配に屈服させた。巨大な都市は農村を覆いつくし、やがて農村は都市に従属するようになる。都市への人口の凝縮は生産手段を集中させることで効率的な生産を行うためであるが、これは必然的に政治的中央集権を発生させる。
曰く、ブルジョア階級は、かれらの百年にもみたない階級支配のうちに、過去の全ての世代を合計したよりも大量の、また大規模な生産諸力を作りだした。機械装置、工業や農業への化学の応用、汽船航海、鉄道、電信、そして地から湧いたように出現した全人口、これほどの生産諸力が社会に出現したことはいまだかつてない。
そして、曰く、ブルジョア階級の経済的ならびに政治的支配があらわれた。
しかし、近代ブルジョア社会はもうすでにその崩壊の萌芽が見え始めている。すなわち、周期的な商業恐慌が常にブルジョア社会の土台を揺るがしている。商業恐慌は生産物や生産手段を一瞬にして破壊する社会的疫病のような存在である。なぜ恐慌が発生するのか。それは、社会に文明がありすぎ、生活手段が多すぎ、工業や商業が発達しすぎたために、需要の側がそれに追いついていないからだ。この疫病はブルジョア的社会そのものから発するものであるという点において、彼らは自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使いに似ている。
さらに、プロレタリア階級がやがてブルジョア階級に反旗を翻す。ブルジョア階級に対する闘争は、プロレタリア階級の存在とともにはじまる。最初は個々の労働者の反抗程度かもしれないが、やがてその運動はますます規模を増していきやがて階級全体が団結することになる。なぜなら、ブルジョア階級が生産効率の上昇のために導入する機械装置は労働の差異を消滅させていき、賃金もそれに伴ってどこにおいても一様の低い水準に引き下がるので、プロレタリア階級の内部における利害や生活水準はますます平均的になっていくからである。こうして階級間の対立は全面的なものになっていくが、この闘争は必然的にブルジョア階級の崩壊をもたらすものである。なぜなら、当然のことであるが、そもそもブルジョア階級が資本を蓄積・運用するための基盤となっているのがプロレタリア階級だからである。また、単純な政治勢力としても、ブルジョア階級よりプロレタリア階級の側に数の上での優位があることは疑い得ない。したがって、ブルジョア階級の没落とプロレタリア階級の勝利はともに不可避なのである。
それでは、ブルジョア階級とプロレタリア階級の闘争が正しいとして、共産主義者は一体プロレタリア一般に対してどんな関係に立っているのか。共産主義者は、プロレタリア階級全体の利益から離れた利益をもっていない。共産主義者の当面の目的はあらゆる他のプロレタリア党と同一である。すなわち、プロレタリア階級の形成、ブルジョア支配の打倒、プロレタリア階級による政治権力の奪取である。
ところで、共産主義者に対して様々な批判の声が挙がっているのもまた事実である。そのような批判の一部に対して、共産主義の立場を示すうえでも応答してみようと思う。ここで注意する必要があるのは、共産主義の理論的命題は決して理論家によって発明・発見された思想や原理に基づくものではないということだ。それは単に、現在起こっている思想的潮流を一般的に表現したものであるにすぎない。
● 共産主義は、個人的に獲得した財産すなわち私有財産を廃止させる。これはつまり、いっさいの個人の自由及び個人の独立の基盤を破壊するものである
果たして、プロレタリアの労働はプロレタリアに財産を与えるのだろうか。決して与えはしないだろう。賃金労働の平均価格は、労働賃金の最低限度のものである。すなわち、労働者が労働者として生命を維持し、また労働力を再選産するに足る必要最低限の賃金しか与えられていない。つまり、こういうことである。現存社会では、私有財産は社会成員の十分の九にとってすでに廃止されている。確かに、われわれは私有財産の廃止を宣言する。ただ、それはブルジョア的財産以外の何ものでもないのである。
● 私有財産の廃止は、社会全体の怠惰を招くのではないだろうか。
この考えにしたがえば、ブルジョア社会は、怠惰のためにとうの昔に破滅していたに違いない。なぜなら、この社会では、働くものは儲けない、儲けるものは働かない、からである。こういう疑念はすべて、資本がなくなれば賃金労働もまたなくなる、という自明のことを他の言葉でいい直しただけである。
● 共産主義は家族を廃止させるのではないか。
ここでも、批判者が前提しているのはブルジョア的家族のことである。この意味での完全に発達した家族はもはやブルジョア階級だけにしか存在しない。それは資本にその基礎をおいているからである。
● 共産主義は婦人の共有を採用しようとしている。
ブルジョアたちは婦人を生産用具としてしか見ていない。だから、生産用具は共同に利用されるべきであるという共産主義の主張を聞くと、同じ運命が婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。共産主義者がここで問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位の廃止であるということを彼らは理解しない。こういわなければならない。共産主義が夫人の共有を唱えるものであるという発想こそブルジョアたちが布陣をそのように扱っているということであり、われわれが廃止したいのはまさにそうした意識なのである。
● 共産主義は国民性を廃棄しようとするものではないか。
プロレタリアはそもそも祖国なるものを持っていない。持っていないものを奪うことはできない。諸国家同士の分離や国民の差異は、商業の自由、世界市場、工業的生産およびそれに相応する生活諸関係の一様性とともにすでに消滅しつつあるではないか。ブルジョアによるプロレタリアの支配は、それをますます消滅させるだろう。したがって、プロレタリア階級の解放はむしろ国民性の確保の条件である。国民内部における階級の対立が消滅するとともに、国民相互の敵対的立場も消滅するだろう。
ブルジョア階級が支配的な社会は不安定かつ不正な搾取のもとに成り立つものだ。全てのプロレタリアは団結し、これを打倒しなければならない。共産主義はこれと共闘し、これまでのいっさいの社会秩序を転覆させることを目指す。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である
万国のプロレタリア団結せよ!
『共産党宣言』で述べられている各主張を理論的に基礎づけるのが、これより約20年後に発表されるかの『資本論』である。その『資本論』を含め、マルクスが予言したことは残念ながら的外れであったと言う他ない。しかし、だからといってその理論が全て無効になったわけではない。むしろ、資本主義の分析理論としてその主張は正しいと僕は思う。それではなぜ予言は成就しなかったのか。それは、マルクスの理論は「純粋資本主義」について述べられているものだからである。現実の資本主義社会は、資本主義理論によってのみ駆動しているわけではない。例えば国家に代表されるように、社会は他の様々なシステムが相互に影響を与え合って動いている。要するに、現在の資本主義は「不純」なのである。
ある意味で、社会学はこの「不純」を解明するためにある学問かもしれない。資本主義の純粋理論はマルクスが樹立した。それでは、それ以外に社会に影響を与えている不純物とは一体何なのか。それが、デュルケム、ウェーバー、ジンメルなど次の世代の社会学者たちが取り組んだ謎なのだ。このような補助線を社会学史に引くことは決して無駄ではないように思える。