社会学の創始者オーギュスト・コントは、学問を抽象的なものから具体的なものへと発展するものとして順序立てた。抽象的なものから順に「数学」、「天文学」、「物理学」、「化学」、「生物学」へと発展していき、そしてこれら5つの学問の最後に「社会学」が登場する。「社会」は学問の対象として最も複雑であるため、したがって最も上位に位置するものとしたのである。この時想定されている「社会学」とは、すべての学問を統一する存在としての「総合社会学」である。このような他の学問を包摂する「総合社会学」としての社会学は、現代では(というよりも社会学史においてかなり初期の段階からであるが)ほとんど支持されていない。その理由の一つが、そもそも社会学の対象である「社会」という概念を総合的に捉えることができないからだ。
今回取り上げるテンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』は、まさに総合社会学的な著作だと言える。論文中には哲学・心理学・経済学・生物学・法学・芸術論・宗教論など様々な学問・学説が縦横に登場し、それぞれの観点からゲマインシャフトとゲゼルシャフトの対比が行われる。積極的な表現を使うならばそれは総合的・多角的と言えるのかもしれないが、正直に言って僕には乱雑で不規律的に思える。まず、「社会」という根本概念の捉え方が明瞭ではない。もちろん現在の水準から過去の著作を批判することが有意味だとは思えないが、社会学の発展史の理解のために書き留めておこう。「社会」という概念を捉える際に、社会学には大別して3つの方法論がある。「方法論的個人主義」、「方法論的集団主義」、「方法論的関係主義」の3つである。それぞれ読んで字の如くだが、それぞれ社会を「個人」、「社会(個人に外在する力)」、「個人間の関係」から理解しようとするものである。『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』であるが、まず「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」という概念は明らかに構造論的なアプローチであり、その意味で個人の上位に存在する理論と言える。一方で、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは個人意志から生じると論じられる。ゲゼルシャフトとゲマインシャフトはそれぞれ個人の「本質意志」と「選択意志」に対応しており、これらの社会構造は個人の意志に由来するものとされる。さらに、本論の冒頭部分において「人々の意志は、相互にさまざまな関係を結んでいる」と述べられ、「この論文では、相互肯定の関係だけが研究の対象としてとりあげられる」とされる。このように社会の概念が曖昧であるため、どうしても著作全体にも曖昧な印象を持たざるを得なかった。この後、ジンメル、ウェーバー、デュルケムなどいわゆる第二世代の社会学者が社会学の定義づけに四苦八苦した理由が伺える。
以上の理由から著作を概括することは少なくとも今の僕にはできないので、せめて主要概念である「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」について簡単に述べるだけにする。
ゲマインシャフトとは、「血と性」によって結び付けられている関係である。この関係が最も強く示されているのは、母子関係、夫婦関係、兄弟の結びつきだ。これらの関係性から他のゲマインシャフト的な関係は発展していくとされる。これは「肉体的な接近を求め、分離をきらう」もので、本質的に「あらゆる分離にもかかわらず結合しつづけ」るものである。
ゲマインシャフト的なつながりを形成している特殊な社会的力は「了解」と称されている。了解とは、多くの人々に共有される意志のことである。了解の本質を形成するのは言語であるが、言語は了解から生じる。言語は「了解の内容でありその形式」であるため、言語はそれらの表出作用として生み出された。したがって、了解の本質は言語であっても、それは言語的に表出される限りのものではない。
「血と性」に基礎づけられているゲマインシャフトの最も一般的な実在は家族である。また、ゲマインシャフトの社会形態は家族を基盤として村落、町へと発展していく。これらの関係性はいわゆる農村的共同体であるが、これに所属している人々は空間や時間を本質的に共有しており、その繋がりは内的なものである。
一方、ゲゼルシャフト的な関係とは、ゲマインシャフトを農村的と例えるならば、それと対比させて都市的と表現することが適切だろう。さらに直接的には、資本主義社会における商業的関係ともいえる。ゲゼルシャフトは、本質的に「あらゆる結合にもかかわらず依然として分離しつづける」関係である。さらにテンニースは「それどころかここでは、人々はそれぞれ一人ぼっちであって、自分以外のすべての人々に対して緊張状態にある」とさえ述べる。なぜなら、この社会で想定されているのは自らの利益を追い求め、「自分の与えたものと少なくとも同等であると考えられる反対給付や返礼と交換でなければ、他人のために何かを為したり給付したりしようと思うことも」ない人々だからである。
ゲゼルシャフト的なつながりの基盤となっているのは、多くの人々が自分自身の利益のためだけのために結んだ「協約」である。協約は個人間が利益追求のために結んだ「契約」がある領域全体を支配するようになった時に現れる形態であるが、これは各人が利益追求のために必要と判断する限りにおいて有効なものである。
ゲゼルシャフトはお互いの利益追求を本質とする関係のため、あらゆる関係は偶然的なつながりであり、本質的には分離しているのである。ゲゼルシャフトは商業原理が発達した大都市においてみられるようになるが、それはやがて国家へと発展し、やがて世界全体をも支配するようになる。
結論でテンニースは「ゲマインシャフトの時代にゲゼルシャフトの時代が続いている」と述べる。そして、家族を基盤とする農村的共同体はやがて破滅するだろうと予言する。もちろん全面的にというわけではないが、この主張の一部は間違いなく正しいと言えるだろう。確かに農業から商業への発展と、そして商業原理の全地球的拡大は今日において普遍的に見られる現象である。このような社会的展開のゲマインシャフトとゲゼルシャフトという象徴的な理論を用いた分析は、その後の社会学の幕を開けたものとして意義深いものだろう。