社会学とはどういう学問か 社会学の認識論
社会学とは一体どういう学問なのか、これがジンメルがまず取り組む課題である。前回の記事でも触れたが、黎明期における社会学は「総合社会学」という側面が強かった。総合と言えば聞こえはいいが、これは要するにすでに知られている知識に対して新しい立場を加えるに過ぎない。従って、社会学が新たな学問として地位を獲得するためには、社会学が何を対象にし、どういった方法で行われるものなのかを強く意識する必要がある。
ここでジンメルは、「人間が共存していく形式を記述し、集団の一員としての個人と集団相互の関係とが従う一定の法則性を発見する」ことが一般的に社会学の課題として取り上げる。それでは、これは一体どのような方法によって可能であるか。まず、心理学的見地から、一人の個人を構成している要素はそれぞれ独立したものではないことが述べられる。例えば感情について言えば、ある感情が生じたことの理由は単一の原因によってではなく、複数の要因が作用しあうことによって生じるものだろう。このことからもわかる通り、むしろ、総体としての人間は、多数の過程が同時に行われ、多数の要素の相互作用の統一対なのである。こうした複数の要因の複合体である個人が集合することで構成される社会もまた、多数の要素が相互に影響しあい、調和しあい、淘汰されることによって成り立つものであると言える。それも、個々の人間がすでに多様であるのに、その人間同士がさらに相互作用する社会は個人よりもより一層複雑なものである。
非常に複雑な性質を持つ対象を分析するためには、一般的にその対象を最も基本的な最小の単位に分解し、その最小単位の性質を見極めるという方法が取られることが多い。それでは社会学においては、分析の対象をどのような水準に求めればよいだろうか。この点について、ジンメルは社会を「相互作用」という水準から分析する。先ほども述べた通り、社会とはそれぞれの要素が互いに作用しあうものである。「つまり、社会単一体がまず存在して、その単一的な性質から各部分の性質、関係、変化が生ずるのではなくて、それとは反対に、諸因素の関係や活動がまず存在して、それにもとづいてはじめて統一体(社会)が考えられるのである」。社会はそれとして実在するものではなく、また単なる個人の集合体でもなく、相互作用の合計を指すものなのである。従って、考察する対象となる社会には大小さまざまな領域を設定することができる。例えば、社会を二人の人間の相互作用から考えることもできれば、国家という大きな領域の内部で行われる相互作用から考えることもできる。当然、ある領域内部で発生する相互作用は他の領域におけるそれとまた作用しあっていると言える。このように、最も広義的な社会とは、個人と個人、個人と社会、あるいは社会と社会がそれぞれ相互作用しあう場なのである。
以下の考察は、「本質的には、個人が他の人々とのあいだにもつ相互作用、つまり彼を他の人々とともに一つの社会全体に結びつける相互作用によって与えられる地位と運命について、考察しようとするものである」。そして、特に社会の「分化」という現象に焦点があてられる。
分離と結合の作用
第2章では、ある集団に所属する個人のその集団に対する責任の度合いが、その集団の規模の拡大に伴って低下していくという現象について述べられる。ここで問題にされているのは、個人の集団への結合の度合いである。
議論を単純にするために、ある目的をもつ集団についてその人数のみを問題にして考えてみよう。集団の「量」のみを問題にし、各成員に質的な差異は存在しないとする。例えば、この集団がある物体を地点Aから地点Bまで移動させるとする。この物体はちょうど10人が平均的な力を加えることによって動かすことができるとしよう。5人の成員で構成される集団Aがこの作業を行うならば、この5人は各個人が平均の2倍の力をださなければこの物体を動かすことはできない。この時、その作業を行うために1人が負担する力が極めて大きいた、仮に1人が作業をサボればその分の負担が他の成員に大きくフィードバックされることになる。一方、集団Bは30人の成員で構成されているとしよう。集団Bが作業を行うとき、各成員は自分の平均的な力の3分の1の力を発揮すれば物体を動かすことができる。この時、もし1人が作業をサボったとしても、その分の労力は他の29人に分担して負担されるため、集団Aに比べて他の成員が負担することになる力は極めて小さい。このことを考えた時、明らかに集団Aは集団Bに比べてその集団が1人の成員に依存する割合が高いことがわかる。小さな集団は個人に対してより大きな負担を課すことになるため、それに従って個人に対する義務と責任も大きくなる。また、集団Aは個人が集団とほとんど融合状態にあるため、個人が罪を犯した際にその責任も集団全体が負うことになりがちである。一方集団Bでは、成員数が多いため1人1人が負担する労力は小さい。しかし、これは集団の個人に対する依存度が小さいということでもあるため、個人が罪を犯したときにその責任は罪を犯した個人に課せられる。このように、個人と集団の結びつきの強さによって、責任や労力の負い方は変化する。その変化は、成員数が多くなればなるほど個人が負担する労力は小さく、一方負担する責任は大きくなるという形で定式化できる。
以上は集団の量のみを問題としてが、これは集団の質的な変化にも当てはまる。すなわち、集団がより複雑な機能を有し高度になるほど集団は個人に対する依存度を弱めていく。したがって、個人にかかる労力は小さくなり、また責任は個人が負うようになるのである。
本著を貫く基本的なアイデアは、個人と集団における「分離と結合」である。その命題は、「集団が小さいほど個人はその集団に結合し、集団が大きくなれば個人はその集団から分離する」というものである。集団が大きくなることで個人が分離するという作用がすなわち「社会的分化」であるが、この作用が最も端的に示されるのが第3章「集団の拡大と「個性の発達」である。なんらかの集団が成立する際、その原初的な形態においては、その集団内のメンバーは同質的である。したがって、集団内におけるメンバー同士の個性は均一的であるが、一方集団間の個性は非常に異なっている。しかし、集団が発展するにつれて、逆に集団内におけるメンバー同士は個性的に、そして集団間は非個性的になっていく。
これを、プログラミングサークルAとフットサルサークルBを例に具体的に考えてみよう。まず、それぞれのサークルの発足時において、Aはプログラミング、Bはフットサルというその活動目的に合致した少数のメンバーによってなされる。したがって、この時集合するメンバーは同質的である。同質的であるからこそ、一つの集団を形成したのである。したがって、AとBは全く異なる活動目的を持つ全く異なる性質を持つ集団である。各集団が発展していくと、様々なメンバーが所属するようになる。興味はないが就活のためにプログラミングを学びたい人がAに所属したり、ただ飲み会をしたいだけの人がBに所属したりといった具合である。そうすると、例えば各サークルが100人規模になると、成立当初は全く異なる性質を持っていたのにAもBも集団としての活動が似たものになったいくといったことはよく見られる。つまり、集団としての個性は小さくなり、集団内におけるメンバーは個性的になったのである。これも、成員への集団の依存度から説明できる。成立当初の少数による集団はその維持のために個人に多くを要求し、個人もまた集団に依存している。集団の規模が拡大してくるにつれて、集団が個人に要求することも個人に配慮することも少なくなり、また個人の集団への依存度も小さくなる。したがって個人の自由度は増し、個人がより個性的になっていくことができるようになるのである。
「社会的分化」と「個性」について、第五章「社会圏の交錯」ではもう1つ興味深い命題が述べられる。すなわち、集団の規模が拡大していくと、集団が個人に要求することが少なくなっていくため個人は複数の集団に所属することができるようになり、その組み合わせによって個性は無限に増大していく。社会において高度に発達した―すなわち個人への依存度が小さい―集団が増えると、個人が所属可能な集団もまた増えていく。そうすると、個人は自身の所属する多種多様な集団から影響を受けるため、個人の人格もより一層複雑に、またより一層幅広くなっていく。この組み合わせは無限に存在するため、集団が発達していくにつれて、個性もまた発達していくのである。これがすなわち、「社会圏の交錯」である。
このように、ジンメルは相互作用における「分離と結合」に注目し、社会の中の一つの形式を明らかにした。あらゆるものは分離することで新たに結合しまた結合するから分離する、近代におけるこうした作用を、彼は明らかに肯定的に捉えている。分離されることとはすなわち自由であることであり、その自由によって新たなつながりを見出すことができる。近代がもたらしたこの作用について、この著作は多くの点で現代においても示唆的である。