「社会」は存在するのか
社会学が研究するのは「社会」ないしは「社会的事実」である。社会的事実とはその名の通り、「社会の中で起こり、ある程度の一般性をもって何らかの社会的な意義を示す、ほとんどあらゆる現象」を指す。しかし、この定義を適用するならば、果たして我々の行為に社会的でないものなど存在するだろうか。人はだれしも食べたり、運動したり、考えたりするわけであるが、そうした行動も全て何らかの社会的な意義を持っていると言える。そもそも人間は社会的動物であるため、社会を研究対象とする学問であると無分別に表明してしまえば、社会学の領域は生物学や心理学の領域と区別がつかなくなってしまう。
また、一般的な社会の理解として、「個人の集合体」という観念を挙げることができるだろう。つまり、それ自体固有の実在としての社会なるものは存在せず、社会は単なる個人の複数形に過ぎないというわけである。この考えに依拠する場合にも、社会学が固有の学問領域を持つことは難しい。社会が個人の集合体に過ぎないとすれば、「社会的」と呼ばれるような現象全ては個人の心理から説明可能だという主張に賛同するも同然であり、その研究は心理学のみで事足りるだろ。要するに、社会は全て個人の心理から説明できるということになってしまうのである。
しかし、実際には、あらゆる集団の内に、個人の心理や他のいかなる学的知識からも演繹されえない現象が存在することは明白である。
例えばそれは、集団の中で誰が決めたわけでもないのに発生するカースト構造や、男女で全く異なる飲み会の席で求められる振る舞いなどである。このような規範は、それに反すれば罰則があるといった類のものではない。しかし確かに私たちの行動に何らかの影響を及ぼしていることに異論はないだろう。あるいは、法規則、宗教教義、金融システムなども、人々の社会意識が結晶し可視化した社会的事実だと言えるかもしれない。
いずれにせよ、私たちの生活の中にある種の拘束力を持つ様々な力が確かに存在する。それらは果たしてある特定の個人が望んだから存在するのだろうか。ある特定の個人が全て作りだしたものなのだろうか。断じてそうではない。個人に外在する社会とそれが生み出す社会的事実は確かに存在するのである。
「社会」とは何か
個人からは演繹されない「社会」あるいは「社会的事実」は確かに存在する。それでは、それは一体どのような性質のものなのだろうか。『社会学的方法の規準』より、デュルケムによる定義を二か所引用しよう。
「社会的事実とは、その固定性に関わりなく個人に外的拘束を及ぼしうる、あらゆる行為様式のことである。さらに言えば、それは、その個人的な表現から独立したそれ自身の存在性をもつ、所与の社会に一般的に広まっているあらゆる行為様式である。」
デュルケム 『社会学的方法の規準』
いずれの定義においてもポイントになっているのは、「個人に強制力を及ぼす」こと、そして「固有の実在性を持つ行為様式」のこと、である。つまり社会とは、個人の意志を超え、個人に外在し、個人にある強制力を及ぼす存在のことである。
そして、デュルケムは、社会を徹底的に「物」として捉える。ここで「物」と対比されているのは人々が持つ観念である。例えば、社会学者は国家、主権、政治的自由、民主主義、社会主義、共産主義、等々の観念を頻繁に用いるが、果たしてこれらの観念には科学的に厳密と言える定義が与えられているだろうか。このような観念は往々にして使用者の主観的な印象に左右されるものである。すなわち、人々の漠然とした印象や偏見によって形成された観念を安易に社会現象に適用するべきではない。社会とは人々が持っている曖昧模糊とした観念ではなく、あくまで科学的に捉えることのできる「物」なのである。
それでは、社会とは一体何によって計られるものなのだろうか。デュルケムによれば、それはあらゆる場所に表象されている。
デュルケム 『社会学的方法の規準』
社会的事実は「物」である。そしてそれは個人にあらゆる仕方で影響を及ぼしている。従って、「物」としての社会的事実の影響の痕跡は私たちの生活の中に刻み込まれている。社会を考察するためには、そのような痕跡を客観的に分析する以外にないのだ。これがすなわち「物」としての社会であり、また社会が実在する証拠でもあるのだ。
「物としての社会的事実」というアイデアはデュルケム社会学を貫くものであり、また学問としての社会学を決定的に方向付けている。もちろんこのような考え方に対する批判は様々な角度から時代を問わず数多くあるが、「社会の科学的な学問」としての社会学を成立させたこの論説の歴史的意義を損なうものではない。
参考文献)
エミール・デュルケム (2018) 『社会学的方法の規準』 菊谷和宏訳,講談社