ジンメルの社会学に、「社会」は存在しない。少なくとも、実体と力を持つデュルケムが規定するような「社会」は存在しない。
また、同じく「個人」なるものも存在しない。ここで言う「個人」は、普通僕たちが実在であると考えているあの個人である。
社会学の対象として実在するのは「社会」なのか、あるいは「個人」なのか。この問題は社会実在論と社会唯名論の対立として、黎明期の社会学において長らく議論の対象となった。社会実在論とは、コントやデュルケムに代表される、社会は個人の外部に実在し、個人に対して影響を与えるものであるとする考えである。社会という全体は個人という部分の総和ではないとされる。対して社会唯名論は、社会という全体は個人という部分の総和であり、それ以上でも以下でもないと考える。つまり、究極的に実在するのは個人のみであり、社会とは個人の集合体を指し示す名称でしかないのである。
ジンメルは、この二つの立場をどちらも批判する。ジンメルによれば、「社会」も「個人」も実在ではなく、この二つは距離の問題にすぎない。ある対象を観察する時、1メートル、5メートル、10メートルそれぞれの距離からの対象の見え方は当然異なる。この時、1メートルの距離から見えている対象の姿を根拠に10メートルの距離から見えている対象の姿は偽であると判断するのは、明らかに愚かな行為だろう。「社会」と「個人」の実在論上の対立は、まさにこれと同様なのである。つまり、「社会」も「個人」も実在ではなく単なる認識の問題に過ぎない。それゆえに、社会実在論と社会唯名論はどちらも真ではない。
ジンメル 『社会学の根本問題』
それでは、社会学は一体何を対象とする学問だというのか。これについて、ジンメルは明確な定義を与えている。
ジンメル 『社会学の根本問題』
注目されるべきは、「人と人との相互作用」である。人々が会話したり、手紙を書き交わしたり、食事をともにしたり、あるいは憎しみあったり、このような素朴な相互作用こそ社会学が注目するべきものなのだ。個人に外在する巨大な力でもなく、それぞれ別々に行為する個人の総体でもなく、人と人との相互作用こそ「社会」の本質なのである。これは、硬化した実在としての「社会」というよりも、むしろ「社会化」、つまり人々が絶えず社会関係を結んだり解消したりする動的な生成変化の過程である。
このように、人と人との相互作用がジンメル社会学の認識論である。社会の本質は相互作用という動的な過程である。しかし、それではこの認識論における「社会」とは一体何を指すものなのだろうか。社会の本質が相互作用であるとはいえ、確かに相互作用そのものを研究する形式社会学がジンメルの立場として知られているが、このアイデアだけでは具体的な研究を行う上であまりにも抽象的だろう。
ジンメル社会学における「社会」とは、対象のある範囲を指す言葉である。社会学者に認識論的に対象として与えられているものは相互作用のみであり、その実在に関心を持つ必要はない。ここで言う対象を最も広義の意味で捉えるならば、それは空間規定・時間規定のどちらも含めた世界の全体ということになるだろう。つまり、全人類の時間的・空間的相互作用の総体である。これは最も広い意味での「社会」である。この相互作用の対象全体から、例えば「ヨーロッパにおける政治」という範囲を抜き出すならば、その範囲はある抜き出された「社会」であり、その研究は社会学として成立する。同じように、例えば「国家」も一つの社会であり、「家族」も一つの社会である。さらに、「政治」などの抽象概念的範囲(これに対して「社会」という名称を与えることが適切かどうかはさておき)を対象とした社会学もまた成立しうるのである。
このように、ジンメル社会学の基本的なアイデアは、新しい学問領域の策定というよりは、社会学的な方法論の提示という色合いの方が強い。このことをジンメル自身もよく理解しており、それゆえ彼は「社会化のこの様式と形式のみを研究」することを社会学独自の研究領域として強調することになるのである。これについてはまた改めて述べることになると思う。
参考文献)
ゲオルグ・ジンメル (2004) 『社会学の根本問題(個人と社会)』 居安正訳,世界思想社