今回紹介するG.H.ミードは、シカゴ大学哲学科で活躍した社会心理学者である。厳密には社会学者ではないが、これまで紹介してきたシカゴ大学の社会学者と同時期に活躍し、彼らに強い影響を与えた。
ミードは生前一冊も本を出版しなかったが、死後彼の講義ノートが発刊されており、その中でも代表的な著作が今回紹介する「精神・自我・社会」である。本書では様々な議論が展開されているが、今回は中でも議論の中心となっている「自我」について取り上げようと思う。内容を先取りすると、「自我」とは本質的に社会的なものであると彼は述べる。
Contents
社会的自我
一般的に僕たちは、自我は自分自身によってのみ規定される本質的に個人的なものだと考えているのではないだろうか。自我は、動物としての人間が持っている基本的な精神機能であり、それは誕生した瞬間から何らかの形で存在している。自我は成長していく過程で発露していき、外部から様々な影響を受けて発展していくが、それは本質的に人間の身体に元々存在しているものである。
一般的に自我はこのように考えられているが、しかし、ミードは「精神」や「自我」と言われているものは本質的に社会的なものだと考える。つまり、自我は人間に先天的に備わっているものではなく、他の人との関わりによって獲得していくものだということである。自我は本質的に「先天的に備わっているもの」であるか「後天的に獲得していくもの」であるかという認識の区別は非常に重要であり、ミードは明らかに後者の立場である。
「自我が有機体の生命のなかに必ずしも含まれていないこと、また、いわゆるわれわれの感覚的経験、すなわち、われわれがそれに習慣的に反応する、われわれの周囲の世界における経験のなかに必ずしも含まれていないことは明らかである、と私は思う。」
G.H.ミード 『精神・自我・社会』
上記引用で用いられている「有機体の生命」とは、要するに身体のことである。自我は身体に紐づいているものではない。それは、個人が成長していく過程で経験する他者との関わりのなかで獲得されるものなのだ。
科学的に実証されている事例ではないが、思考実験として「オオカミ少年」を考えてみればよいかもしれない。幼児期に狼に育てられた少年または少女は、言葉を全く発さず四本足で行動し、唸り声や遠吠えをあげると言う。もし自我が人間の身体に元々備わっているものならば、例え狼に育てられていたとしても、多少なりとも人間的な振る舞いを行うはずである。しかし、僕たちは狼に育てられた子供が人間的な振る舞いを身につけているとは想像できないのではないだろうか。
それでは、自我が本質的に社会的なものであるとはどういうことだろうか。単純化するならば、自我とは、他人から期待された役割の統合体である。自我は他人との関係の集合体である。一般的な想像とは真逆に、自我は外部要素の寄せ集めなのである。
そもそも、僕たちは確固として独立した自我を持って生活しているのだろうか。必ずしもそうではないだろう。僕たちは所属する社会集団によって全く違った振る舞いを求められるし、実際にそのようにして社会生活を送っている。
G.H.ミード 『精神・自我・社会』
したがって、1人の人間に複数の人格が存在するのは、ある意味では正常である。人間は一つの自我を先天的に持っているのではない。成長する過程で獲得した複数の役割が組織化されたものが自我なのである。自我とはすなわち、社会的自我なのである。
社会的自我の発展過程
次に問題になるのは、人はどのようにして社会的自我を獲得するかである。特に幼児期における自我の発達について、ミードは二つの一般的な段階があると述べる。
しかし、個人の自我の十全な発達の第二段階では、その自我は、これらの特殊な個人的態度の組織化によって構成されるだけでなく、一般化された他者の、または彼が属している全体としての社会集団の社会的態度の組織化によっても構成される。」
G.H.ミード 『精神・自我・社会』
もう少し簡単にしてみる。第一の段階では「特殊な態度」、つまり「単一の態度」を個人は内面に取り込む。第二の段階では「全体としての社会集団の社会的態度」を内面に取り込む。要するに、「全体の態度」を内面化するのである。文章は複雑であるが、第一の段階では「単一の態度」を、第二の段階では「全体の態度」を取得することで、自我は発達していくとミードは述べているのである。
この二つの段階について、ミードは第一の段階として「遊戯」を、第二の段階として「ゲーム」を例証として挙げている。これについて見てみよう。
遊戯
ここで言われている遊戯とは、「ごっこ遊び」のことである。子どもは、例えば、家族ごっこ、先生ごっこ、警察ごっこなど、誰かのふりをすることで遊ぶ。誰もが一度は経験したことがあるだろう。
ごっこ遊びは、自分以外の何ものかの役割を引き受け、それを演じる遊びだ。子どもは、この遊びを通して何らかの社会的意味を持った役割を自分自身に内面化するのである。
ごっこ遊びをするためには、演じる対象がどのような役割を持っており、どのような振る舞いをするものなのかを知らなければならない。子どもは、ごっこ遊びに含まれるこうしたプロセスを踏むことによって、他者の役割を内面化していく。これこそが、自我が形成される第一歩なのである。
ゲーム
ごっこ遊びが社会的自我を獲得するための第一歩であった。次の段階は「ゲーム」である。ここで言われる「ゲーム」とは、「遊戯」と比べてより「組織化された遊び」であり、さしあたり「野球」をイメージすればいいだろう。
「遊戯(ごっこ遊び)」においては、子どもはある「単一の態度(警官なら警官、先生なら先生)」を内面化することで遊ぶ。一方ゲームにおいては、子どもはそのゲームに含まれるすべての役割を知っていなければならない。つまり、「全体の態度」を知らなければならないのだ。
野球をするためには、プレイヤーは、バッター・ランナー・ピッチャー・キャッチャーなど全ての役割を把握する必要がある。野球をするために必要な役割の全てを把握していなければ、野球をプレイすることはできない。つまり、ゲームにおいては高度に組織化された社会的役割の全てを内面化していなければならないのである。
ゲームを通して、子どもは組織化された社会集団全体の態度を内面化する。そして、組織化された社会集団全体の態度のことをミードは「一般化された他者」と呼ぶ。
G.H.ミード 『精神・自我・社会』
人は、「一般化された他者」の態度を取得することによって社会的自我を獲得する。以上述べた「遊戯」と「ゲーム」は社会的自我を獲得する際の抽象的な過程である。もう少し現実に即して具体例を出すならば、例えば小学校の教室でも「ゲーム」と似た過程が見られるのではないだろうか。子どもは学校に通い様々な活動を行う中で、自分自身の「キャラ」を形成していく。おそらく、小学校高学年あたりから意識的に自分の「キャラづくり」を行う子どもがいるであろう。それは、ある教室全体の「一般化された他者」を把握し、かつそれに適応してなんらかの役割を演じているのである。それが意識的であろうとなかろうと、ほとんど全ての子どもはそういったことを学校で行っているだろう。
要するに、ミードは、ある社会集団全体に適応した何らかの役割を演じることによって社会的自我を獲得すると述べているのである。ただ、実際には人は複数の社会集団に所属しており、それぞれの集団ごとに全く異なる役割を持っていることが普通だろう。先にも述べた通り、これはむしろ正常なことである。これについては、それぞれの集団で取得した別々の役割の統合体がすなわち社会的自我と言う他ない。社会的自我は、人が取得してきた社会的役割のモザイクなのである。
以上の議論は、これまで取り上げてきたシカゴ学派の都市社会学者たちの議論と重なる部分が多数ある。例えば、前回の「都市」では、都市において拡大する「移動性」が社会問題の源泉であるという議論を取り上げた。これについて、ミードにおける自我の獲得においても、ある程度周囲の人間関係が固定されていることが条件であるように思える。
社会的自我の獲得には社会集団内における役割の取得が必要であるが、もし自身の所属する社会集団が極端に流動的な場合、健全な自我の発達は疎外されるのではないだろうか。社会的自我は様々な役割の統合体であることは述べたが、取得された役割が極端に多様であったり、あるいはそれぞれの役割が未発達なまま役割取得が強制的に中断されたりすると、人格の統合に破綻をもたらすことは十分に考えられる。都市における極端な流動性が、このようなことを引き起こす原因となるかもしれない。
いずれにせよ、自我が他者との相互作用の中で育まれていくというミードの議論は、シカゴ学派の基本的な方針と重なるものである。
参考文献)
J.デューイ=G.H.ミード (1995) 『精神・自我・社会』 河村望訳,人間の科学社