『社会学的想像力』C.ライト.ミルズ,1959 ― 社会科学は何を果たすべきか

本書はミルズの社会学論であるとともに、当時のアメリカ社会学への批判書である。当時のアメリカでは、「グランド・セオリー(壮大な一般理論)」と「抽象化された経験主義(統計調査)」の2つの学派が社会学界を席巻していた。この2つの学派のいずれもある種の方法論に固執しており、社会学の問うべき問題に対して適切に答えることはできていないとミルズは言う。

そして、ミルズは社会学が果たすべき役割と、その基本的概念として「社会学的想像力」を提示する。社会学的想像力とは、個人と社会との結びつきを社会構造の中から理解する力のことである。普段の生活の中で僕たちは”社会構造”や”歴史”などをことさら意識することはない。しかし意識することはないにしても、確かに僕たちは様々な社会構造の中で生活しており、その構造は僕たちの行動を規定しているのである。

グランド・セオリーへの批判

グランド・セオリーとは、全ての社会現象をある単一の体系によって説明しようとする理論のことだ。恋愛、家族、宗教、政治、音楽、サブカルチャーなど社会学には様々な個別的な研究領域が存在するが、グランド・セオリーはこれらの全領域を単一の体系によって説明しようとする。本書においては、特に当時の時代背景と照らし合わせてパーソンズの社会システム論がその代表例として取り上げられる。

前記事でも取り上げたパーソンズは、社会秩序を一つの大きなシステムとして取り扱った人である。社会秩序の可能性を、(1)適応、(2)目標達成、(3)統合、(4)潜在的パターンの維持及び緊張処理、という4類型に整理したいわゆるAGIL図式はその典型だろう。パーソンズが取り組んだのは、社会秩序を可能にしている要件を概念化し、それを体系的に整理していくというものであった。しかし、こうした巨大なシステム論はいくつかの問題点をはらんでいる。

一般的になりすぎた理論体系は現実を何も説明しない

グランド・セオリーの問題点は、まずはその理論の一般性にある。通常、ある概念を一般化するためには、その概念から現実的な意味を取り除いていかなければならない。ある概念が一般的であると言うことは、すなわちその概念の適用性がより広いと言うことである。つまり、一般的であるためには、概念は抽象的にならざるをえないのである。ある概念において、「一般的(≒抽象的)」であることと、「特殊的(≒具体的)」であることは、トレードオフの関係である。

例えば「電化製品」という概念は、かなり抽象的である。それを具体的にしていくと、「照明器具」に、さらにその中の「フロアライト」に、さらには「〇〇家のソファーの隣にあるライト」といった具合である。このように、概念は具体的になっていくにつれてよりその内容は豊かになっていき、また特定の対象を指すものになっていく。逆に言えば、一般的な概念はその意味の範疇に様々な概念を含んでいるため、ある特定の具体的対象については何も説明しない。

「単一の一般社会学理論」も、こうした結末に陥る。すなわち、全ての領域を説明しうる程度まで抽象化された理論は、現実世界のいかなる現象も説明できなくなってしまうのである。

「「ひとつの一般社会学理論」を提示しえているのだと主張するグランド・セオリストが実際のところ提示しているのは概念の王国である。人間社会における構造的特徴の多くは、人間社会を適切に理解するための基礎であると長らくみなされてきたが、そうした特徴はこの概念の王国からは締め出されてしまう。」

C.ライト.ミルズ 『社会学的想像力』

社会学は個人と社会とを結びつける役割を担っているが、複雑な抽象的概念体系を用いたグランド・セオリーは個人が生活する現実社会を捨て去ってしまう。

社会構造の変動を否定し、体制維持のイデオロギーになってしまう

もう一つの注目するべき問題は、グランド・セオリーは支配権力を肯定するイデオロギーに転化しやすいという点である。ある特定の巨大なシステムだけが存在するという思想は、社会秩序を固定化してしまう危険がある。

これについては、具体例を先に出した方がよいだろう。例えば、ナチス・ドイツにおける政治体制に秩序は存在したかというと、それは存在したと言う他ない。むしろ、現在のほとんどの近代国家以上に確固とした秩序が存在していただろう。ナチスは政治・経済・軍事の3分野を一元的に管轄し、それによって厳正な社会秩序を存在した。

しかし、果たしてこのような秩序は肯定されるべきだろうか。歴史的に見て明らかなように、全体主義的な国家体制は単純に肯定されるべきではない。もちろん、グランド・セオリーがすぐさま全体主義という考え方に結びつくわけではない。ただ、それは往々にして秩序という名のもとに支配体制を肯定するイデオロギーと化してしまうのである。

「こうした用語では、闘争という考えをうまく定式化できない。構造的な対立、大規模な反抗、革命などを、偽ランド・セオリストは思いうかべることもできない。実際、一度確立した「システム」は、安定しているだけでなく、もともと本来的に調和的なものと考えられる。パーソンズの言葉を借りれば、不安定要素は「システムに招き入れ」られなければならないのである。」

C.ライト.ミルズ 『社会学的想像力』

グランド・セオリーは、それ以外の体系も、また体系の変動も説明しない。あるシステムのみが支配する世界では、それ以上の変革は必要とされない。現実に起こる諸々の闘争はシステム内部で必然的に起こる出来事とされ、システム自体の更新は行う必要がなくなる。あるいは、闘争や矛盾はシステムの「エラー」によって発生したものであり、その闘争が持つ意味が顧みられないまま排除されてしまうのである。

「抽象化された経験主義」への批判

「抽象化された経験主義」とは、要するに統計調査のことである。この研究スタイルの特徴は以下のようなものだろう。調査対象の母数の中から一群の個人をサンプリングし、予め調査者により設計されたアンケートを行う。それを「データ」として入力し、そのデータに対して統計的な処理を行うことで様々な規則性を発見するというものだ。現在でも「科学的な」社会学だと評されることが多い統計調査だが、これにもいくつかの問題点を指摘することができる。

<方法>が研究の目的を規定してしまう

まず指摘するべきは、この研究スタイルを支持する人は、統計調査という方法に束縛され研究の本質的な目標を見失ってしまっているという点である。

先ほども述べた通り、個人と社会を関係づけることが社会学の役割である。そのために社会学者は社会構造を理解し、モデルを組立てるのである。ここで、本来統計調査などの「方法」は目的達成のための手段でしかないはずだ。しかし、社会調査のみを専門的に行う人々は本来の目標を見失い、調査という方法に固執してしまっている。これをミルズは、「方法的禁制」と呼んだ。

「さらに、方法論的禁制や、それを体現する調査研究体制により、専門化に拍車がかかっている。「わかりやすい研究領域」を設定し、社会構造を問題化する概念を用いるなどして、主題によって専門化するような図式が提示されることはまずない。専門化が叫ばれているが、それを基礎づけているのは、内容、問題、領域などを無視して、神聖な科学の<方法>を用いることだけである。」

C.ライト.ミルズ 『社会学的想像力』

統計という「方法」が、目的を規定してしまっている。これが問題である。統計調査はある特定地域のある特定の個人のみを調査の対象にして行われる。しかし、果たしてこの作業だけで有意味な理論を形作ることはできるのだろうか。すなわち、個々別々な社会調査を積み重ねることによって果たして体系的で有意味な社会理論は生まれるのだろうか。

先ほどのグランド・セオリーが「理論」に固執することが問題だったのだとすれば、抽象的な経験主義はその逆に「方法」に固執してしまっている点が問題なのである。手段は自らが取り組む目標に合わせて適切に選択されるものであり、手段が方法を規定することはあってはならない。さらにいえば、社会学の目標は統計的調査のみによって果たされるものではない。

出資者の利害関心に配慮する必要がある

第二に、学問的に意味のある統計調査を行うには莫大な予算と人員が必要になる。これが、社会学者としての役割の放棄につながるのである。

研究に資金がかかるため、その研究費を誰かからの出資で賄うことになる。その出資者となるのは、おそらく国家あるいは企業だろう。彼らから出資を受けている以上、研究は彼らの意向をくむ形で行われることになる。そうなったときに、果たして社会学はその役目を果たすことができると言うことができるだろうか。

「こういうかたちで研究主題が決められてしまうと、知的批判は効力を失う。さらに、もう一つはっきりしていることがある。<方法>にコストがかかるので、研究従事者たちは、研究の商業的・官僚的利用に夢中になる。そして現に、このことが彼らのスタイルに影響を与えてきた。」

C.ライト.ミルズ 『社会学的想像力』

何度も言うように、社会学は個人と社会との関係を考察し、そしてより良い社会を目指した提案を行う学問ではなかっただろうか。研究を誰かからの出資に頼って行うと言うことは、社会学の学問的批判能力を失うことにもつながるのである。

社会科学の担うべき役割と「社会学的想像力」

「もし人間の理性が歴史形成において、もっと明確でもっと大きな役割を果たすべきだとすれば、社会科学者がその主要な担い手の一つでなければならないのは間違いない。というのも、社会科学者は研究を通じ、人間の事象の理解における理性の使用を象徴する存在だからでらる。」

C.ライト.ミルズ 『社会学的想像力』

歴史を作るのは人間である。しかし過去を振り返ってみると、ある特定の階級の人々が歴史形成に大きな影響力を及ぼしてきたことは間違いない。王族、貴族、封建諸侯、大地主、資本家、などがその例として挙げられる。

社会科学が立ち向かうのはこうした一極集中した権力構造であり、その時に依拠する価値観は「理性と自由」である。近代国家は民主主義が政治的基盤となっているが、しかし多くの場合それは本来的な意味での民主主義ではない。僕たちは世界のあらゆるところで未だに搾取や暴力を見ることができる。民主主義とは、こうした支配構造を固定化させないために生み出されたものではなかったか。

様々な場所で言われていることだが、民主主義が正常に機能するためには、主体者である民衆に適切な意思決定を行うための理性が備わっていることが必要とされる。この理性能力の中でも特に近代において必要とされる能力は、自分自身の個人的状況と、社会全体の構造的な問題を繋ぎ合わせて考える能力である。これこそが、ミルズが「社会学的想像力」と呼ぶ力なのである。

社会学的想像力とは、個人と歴史のつながりを見極め、その結びつきを構造の中で理解する力のことだ。この力を身につけることによって、人々がその主体者として歴史の形成に主体的に参加していくことができる。そして、社会科学者はその能力を用いる第一人者としての役割を果たさなければならないのだ。

社会学者は個人と社会という二つの極のどちらか片方だけに身を置いてはこの役割を適切に果たせない。個人だけに身を置いた研究とは、この記事で取り上げた抽象化された経験主義のことである。なぜなら、統計調査は社会構造も個人を巡るデータによって理解することが可能である、ということが前提とされているからだ。一方社会の側は、グランド・セオリーのことである。グランド・セオリーは、個人を見ることなく学者が概念の壮大な体系を作りあげることによって社会を説明しようとするものだった。しかし、このような理論は往々にして現実世界を何も説明しないのである。

参考文献)

C.ライト.ミルズ (2017)『社会学的想像力』 伊奈正人,中村好孝訳,筑摩書房

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