『自由からの逃走』については、本書が刊行された歴史的背景を無視したまま述べることはできないだろう。
中世以降の近代西欧世界の歴史は、ひとえに伝統的諸体制からの解放の歴史であったと言っても過言ではない。16世紀と17世紀を通じて起こった各種の改革運動は、政治的・宗教的・経済的な枷から人々を解き放った。近代においては、絶対王政、封建領主、ギルド制、カトリック教会による一元的な支配など、人々の生活の大部分を決定していた巨大な規範はもはや存在しない。近代以降の自由の追求は、400年をかけて着実に進歩していた。
それなのに、なぜその西洋先進国で人類史上最悪の自由の否定が起こったのか。確かに自由の進展は平坦な道ではなく、幾度も破壊的な戦争が繰り返されたが、それも全ては自由という目標の実現のためであったはずだった。ファシズム体制の出現は、そのような歩みを幻想にしてしまった。
もしファシズム体制がごく少数の人々―例えばヒトラーのような―による大衆の洗脳だったとすれば、話はもう少し単純だったかもしれない。人々を戸惑わせたのは、いくつかの研究や検証を通して発見された、大衆は自ら進んでファシズム体制に参加していたという事実だった。よく知られているように、ナチスは全く合法的な手段で、しかも当時最も民主的な憲法だとされていたワイマール憲法下のドイツで、政権を獲得したのだ。その最悪の結末の一つが、600万人以上ともいわれるユダヤ人の全く機械的な虐殺である。
自らの意志によって彼らは自由を放棄した。放棄したというよりもそれに対して反逆した。これは、とくに当時のイタリアやドイツだけの問題ではなく、近代国家の全てが直面している問題でもある。なぜなら、ファシズム体制を生み出したのは少数者ではなくごく普通の大衆であったのだから、同様の近代制度を採用している他の先進諸国でも十分に起こり得ることだからである。
だからこそ、なぜ人々が自発的に自由に手放していったのかをという問題は解明されなければならない。「自由からの逃走」という本書の表題はそのことを最も端的に表現している。
近代人にとっての「自由」の両義性
人々が自由を放棄した原因は、当の自由にあると考えるのが妥当だろう。そこで、まずは近代における自由の性質についてここでは述べる。
近代社会は確かに個人を自由にした。個人は伝統的な繋がりから解き放たれ、自らの人生を選択することができるようになった。しかし、個人が独立するということは、裏を返せば個人が孤立するということである。それも、自由の原理が社会全体を覆うものである以上、孤独と孤立は個人に強制的に適用される。
しかしこれは、資本主義が発展する自由の過程に及ぼした一つの結果であり、それは同時に個人をますます孤独な孤立したものにし、かれに無意味と無力の感情をあたえるのである。」
E.フロム 『自由からの逃走』
まず、個人主義は近代社会の経済的基盤である資本主義の一般的特質の一つである。資本主義社会において、個人は完全に彼自身の責任において活動していることが前提される。彼がどのような生活をするのか、成功するか失敗するか、また彼自身の人格でさえ、全ては彼自身の選択の結果となった。この結果、人は無数の選択肢の前で立ちすくむことになった。
近代的個人が直面する社会は、それ以前の社会とは比較にならないほど巨大である。あらゆる社会システムの合理化とそれに伴う高度な専門化は、人類に富と安定をもたらした。画一化・機械化された生産インフラは都市の隅々にまであらゆる商品を行き渡らせた。また、生活から魔術的な要素は可能な限りとり除かれ、日常生活は大部分計算可能なものになった。
しかし、個人はもはや自分の生活がどのようにして成り立っているのかを把握することはできない。製品がどこでどのようにして生産されているのか、また自身が依拠する様々な制度はなぜどのようにして成立しているのか、その全てを知ることはできないし、また知る必要は特にないとされている。
E.マンハイム 『自由からの逃走』
社会は人の利益のために形成されたはずなのに、いつのまにか社会が複雑かつ巨大になりすぎて、人は社会を維持するために生きなければならなくなった。人が社会という巨大な機械の一部分となったことによって、人は自分自身を無意味で無力なものだと強く感じるようになったのである。
自分が何のために生きているのか、自分自身が巨大なシステムの代替可能な部品でしかない時、人は自分の存在する究極意味について不安にさらされる。個人は無限の選択肢から自由に選択できるが、しかし何のために選択するのかという意味は喪失してしまっている。近代的個人の不安や絶望は、個人には把握しきれないほどの選択肢の多さとともに、一方では何を選択したところで結局は無意味なのだという感情に由来している。
確かに近代社会は個人を自由にした。しかし、個人は社会の中にひとりぼっちで取り残されたのである。人はたった一人で途方もなく巨大なシステムの前に強制的に投げ出されたあげく、行為の責任は全て彼自身のものとされているのである。近代社会に蔓延している捉えようのない不安の感情や社会病理的な精神疾患の根源はこのような社会構造そのものなのだ。
自由からの逃避のメカニズム
近代に特有の孤独と孤立に直面した個人には、二つの道がある。一つは「積極的な自由」へと進むことであり、もう一つは自由を捨て去ることである。ここでは、後者のメカニズムについて述べる。
自由を捨て去ったことの結末が、すなわちファシズム体制の成立であった。ファシズム体制は、多かれ少なかれ個性や自己を自分の外部の権威に明け渡すという特徴を持っているが、人が自由を重荷に感じた結果なぜこのような体制の成立に繋がるのだろうか。これについて本書では「権威主義」「破壊性」「機械的画一性」の3つのメカニズムが示されているが、この記事では特に「権威主義」に焦点をあてて紹介したい。
権威主義
自由を放棄するための手段の一つが、権威主義的なパーソナリティを持つことである。このメカニズムは服従と支配への努力という形ではっきり表れ、それぞれマゾヒズム的およびサディズム的という一見矛盾した傾向を示している。
マゾヒズム的態度とは、自分自身を実際以上に無力で卑小な存在であるとみなし、自分の外部の他の人々や制度、あるいは自然などによりかかろうとする態度のことである。彼らは自分自身を肯定することができないため、外部に存在する確実と思われる権威に全面的に服従しようとする。自分という存在になんの確実性も見いだせないために、彼らは外部の権威に依存することによってしか生きることの意味付けを行うことができないのである。この傾向がもっと極端な場合には、絶絶間ない自己非難や自己否定のあまり自分を肉体的に傷つけたりすることもある。
一方サディズム的態度とは、他人を自分に依存させ、完全に自分の支配下に置こうとする傾向のことである。彼らは人を物質的にも精神的にも搾取しようとする。一般的にこのような傾向の持ち主は、その社会的評価はともかく、精神的な強者であるとみなされることが多い。しかし、その実態は逆である。彼らは彼が支配する人間を強く必要としており、むしろ支配する人間に依存している。彼らは誰かを支配している間だけ精神的な安定を確保することができ、支配対象なしには生きていけない。
以上に述べたマゾヒズム的的傾向とサディズム的傾向は、一見正反対で相容れないように見える。しかしこの二つの努力の方向は、どちらも耐え難い孤独感と無力感から逃れるための行動だという点で共通している。
マゾヒズム的努力は、自由に伴う選択と責任を個人では抱えきれなくなったため、だれかに譲渡そうとする試みである。言い換えればそれは、自己自身から逃れること、自由からのがれようとすることである。自由が存在するからこそ人は悩み苦しむ。ならば、自由をできる限り縮小すればいい、それがマゾヒズム的傾向の本質的な動機である。
E.フロム 『自由からの逃走』
他人に対して完全な支配者となろうとするサディズム的傾向も、孤独に耐えられず誰かに依存しようとするという点で、同一の欲求に基づいている。フロムはマゾヒズムとサディズムのどちらの根底にも見られるこの性質を「共棲」と呼ぶ。
E.フロム 『自由からの逃走』
マゾヒズム・サディズムという名称は、その症状が病理的に表れた人を指す言葉である。特に病理的にではないがこのような傾向を持つ人間のことをフロムは「権威主義的性格」であるとする。これは、マゾヒズム・サディズムのいずれも権威に対する態度のあらわれだからである。
この権威主義的性格が、ファシズムの台頭を招いた根本的要因の一つであることは疑い得ない。権威主義的パーソナリティは、多かれ少なかれ近代的個人が誰しも持っている。そして、特にドイツにおいてはそれが顕著に表れたのである。
フロムはヒトラーを典型的な権威主義的人物であると分析した。また、例えば第一世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約に対する憤りや民主制の土壌が整っていなかったことなど、当時のドイツの社会状況は人々が権威主義的パーソナリティを発露しやすい環境であった。こうして、ドイツにおいては権威主義的パーソナリティに基づく一党独裁が実現したのである。
積極的な自由
近代社会が内包する個人を孤独と孤立に陥れるメカニズムは、その最悪の形としてファシズム体制を成立させてしまう。ここでフロムは、先述したように、近代社会における自由について「逃避」ではないもう一つの道を示す。それが、「積極的な自由」という理念である。
これまで僕たちが論じてきた自由は、「消極的な自由」である。消極的な自由とは、近代以前の社会を規定していた様々な束縛からの解放というまさに消極的な意味での自由のことである。これをフロムは「~からの自由」であるとした。
一方「積極的な自由」とは、人が他者や自然と自発的に結びつくことである。これは「~からの自由」に対して「~への自由」という態度である。近代社会が人々を伝統的規範から解き放ち孤立させたことが「消極的な自由」であった。「消極的な自由」はただ伝統的な共同体からの解放という意味しか持っておらず、ここにとどまる限り人々は孤独に取り残される。そこで、個人がそれぞれの個性を維持したまま外部と結びつく「積極的な自由」の追求が必要になるのである。ここで、フロムが言う「積極的な自由」におけるキーワードは「自発性」である。
「積極的な自由」とは要するに、人が自らの創造的な個性を維持したままこの世界に積極的に参加することである。自らの個性、すなわと他者との差異を承認したうえで、それでも他者や世界と創造を通して繋がっていくこと、これがフロムが人々に求める努力なのだ。
E.フロム 『自由からの逃走』
フロムはこのような自発的な活動として「愛」と「創造的な仕事」を挙げる。「愛」は、「自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく」、「個人を他者と結びつける」ものである。また、「自然の支配」でもなく「人間の手で作りだしたものにたいする崇拝や隷属」でもない「創造的な仕事」は、人間と自然とを結びつけるとフロムは論じる。そして自発的な活動によって自我を実現したまま外界と結びつくことができたとき、個人は本当の意味で「自由」を獲得するのである。
E.フロム 『自由からの逃走』
本書の性格を大まかに言えば、近代社会とファシズムへの批判書であると言うことができるだろう。しかし、多くの思想家が近代社会に対して絶望的な見解を述べていた中で、本書でフロムは自発性による積極的な自由という極めて楽観的と言える思想を打ち出した。
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」とアドルノは述べたが、当時の社会情勢下でそれでも希望を示したフロムの思想は、現代においてもその議論とともに振り返る意義があるのではないだろうか。
参考文献)
E.フロム (2017)『自由からの逃走』 日高六郎訳,東京創元社