スティグマと言うと聞きなじみのない言葉だが、あえてそれを現代風に言い換えるならば、要するに劣等感のことである。”一般的”とされている基準からの逸脱を示す属性であるスティグマは、それを持つ人に劣等感を生じさせる。スティグマと劣等感とは切り離すことができない。
基準からの逸脱が極めて大きい場合や可視性が高い場合、スティグマは1つの固定的なカテゴリーとして社会に認知されることになる。例えば、犯罪者、身体欠損者、精神障害者などがそれである。
この記事で明らかにしたいことは、社会的にそのカテゴリーの存在が認知され、一般社会からは隔離されるようなスティグマも、一般的な人々が持つ劣等感と本質的に同質のものであり、それは社会的交渉の過程であるということである。
スティグマとは
まずは、「スティグマ」とは一体何なのかについて明らかにしたい。スティグマとはもともと、身体に刻み付けられたある種の徴のことを言い表す言葉である。この徴は、それが印された者が「異常者」であることを人々に告げるものである。歴史の中で、罪人、奴隷、障がい者、裏切り者など、社会にとって忌むべき存在にこの徴は与えられた。
スティグマが持つ「通常とは異なる者」という意味は、現代でも大きく変わっていない。ゴッフマンは、本書におけるスティグマを次のように定義している。
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
例えば、身体欠損者はいかなる場合においても「正常ではない」。彼はそもそも「正常な人間」というカテゴリーから逸脱してしまっているからだ。したがって、身体欠損は最も明瞭なスティグマの属性である。。もう少し一般的な例を挙げるならば、例えばアルコール依存症の医者はスティグマ保持者と言えるだろう。なぜなら、アルコール依存症は医者という属性に適合的ではなく、社会的に認知されている基準からは逸脱しているからだ。
このように、通常その人が求められる属性から逸脱した属性のことをスティグマと呼ぶ。すなわち、スティグマは私たちがある人に対して要求しているアイデンティティと彼が実際に持っているアイデンティティの乖離を生み出す要素なのである。これを「対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの乖離」とゴッフマンは述べている。また、ゴッフマンは、スティグマを持つ人と対比させて「われわれ、ならびに当面の特定の期待から負の方向に逸脱していない者」のことを常人と呼ぶ。これは、その文字通り社会的に認知されている基準から逸脱していない通常者のことである。
以上の定義を基にして、次節ではスティグマを持つ者のアイデンティティについて述べる。
スティグマのある人のアイデンティティのありか
個人が所有するアイデンティティはその人が結ぶ様々な社会関係を通じて形成されていると考えられるため、アイデンティティの問題は常にその人が所属する社会集団と関連付けて論じる必要があるだろう。特にスティグマのある人にとっては、所属する社会集団が自身の生活と密接に結びつくことが多い以上、僕たちはこの問題について特別の注意を向けなければならない。
内集団
スティグマのある人は2つの世界に生きている、と想定することができる。その2つとは、ある意味で両極に存在する「内集団」と「外集団」である。
内集団とは、スティグマのある人にとっての<同類>あるいはスティグマに対して理解のある人々の集団のことを指す。相互扶助団体や各種サークル、医療機関などがこれに含まれる。
通常、スティグマのある人は一般社会の中ではそのスティグマを隠したり、”特別な演技”を行うことを求められる。しかし、ここではスティグマのある人は自分自身を偽ったりあるいはスティグマのある人としての道化的役割を果たしたりせずに済む。すなわち、彼はここでは常人としての地位を取り戻すことができるのである。
しかし、「スティグマのある者は、自己自身を他の人間とまったく違ったところのない人間と定義するが、ところがまた一方では同時に、自分を周囲の人びとと一緒になって別種の人間と定義している」。スティグマのある人は内集団の内部においては正常な人として振る舞うことができるが、そもそも内集団が外集団からの隔離によって成立している以上、彼らは外集団との差異を意識せざるを得ない。そのため、スティグマのある人は常にアイデンティティにまつわる差異と同一のジレンマに直面している。
このジレンマに対する解決策として、ある種の準則、すなわち彼らがどのようにこの困難に対処すればよいのかという指針が内集団で形成されることになる。そして内集団内で形成されたこの準則がスティグマのある人に内面化され、彼のアイデンティティの重要な位置を占めることになるのである。
「右のような公然支持されている行動準則が、スティグマのある人に、ただ単に基本綱領と政治的指針ばかりでなく、またただ単に他人をどう扱うかを指示するばかりでなく、自己に関する適切な態度とはどういうものかについての処方をも呈示している、ということは明白であろう。」
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
この準則は、例えば、常人との友好関係の築き方、同類に対する態度、自分に対する偏見との付き合い方、自分の特異性との向き合い方などを示すものである。このような準則はスティグマのある人にとっての一つの指針となり、スティグマを持つ者としてのアイデンティティを形成する。
外集団
一方外集団とは、<同類>でない人たちの集団、すなわち常人たちの世界である。常人たちにとっては意識的でないことも多いが、この世界には様々な基準や規範が流通しており、通常、スティグマをもつ人たちにとってはどうにかして適応するべき世界として現れる。したがって、外集団では、スティグマのある人は自身のスティグマを隠蔽するための様々な工作や、あるいは異常者としての道化的な振る舞いを迫られることになるのである。
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
スティグマのある人は、スティグマのある人としての内集団準則を持つ一方で、外集団の視角から自分自身を見ることも求められる。すなわちそれは、自分自身を基本的には常人と同じ人間として受け容れることである。彼らはスティグマを持つ人としての自覚を持ちながら、自分自身を常人として扱わなければならない。これは例えば、ある場面においてスティグマを持つ人が自身のスティグマを積極的に常人に開示することで社会的交渉が円滑に進むことなどに表れている。
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
内集団と外集団のはざまにあるアイデンティティ
以上述べてきたように、スティグマを持つ人は本質的に対立する二つの態度の内面化を求められる。彼らは、このことによってスティグマを持ったまま社会成員として生活することが始めて可能になる。しかし、この過程は彼らのアイデンティティに、スティグマという差異を持つ者としてのアイデンティティと、常人としてのアイデンティティという分裂をもたらものである。
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
スティグマと常人、逸脱点のある常人
さて、これまで僕たちはスティグマとスティグマのある人のアイデンティティについて論じてきた。ここで、ゴッフマンは議論に一つの根本的な転回を行う。すなわち、果たしてスティグマのある人と常人を明確に区別することができるのだろうか、という転回である。
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
スティグマとは、その社会で流通する基準からの逸脱を示す属性であった。この社会で流通する基準とは、極端に言えば、例えば医者の場合、患者に同情的で、博識で、謙虚で、中肉中背で、さわやかで、有名国立大学の出身で、休日はスポーツに興じる男性というのがそれである。
そんな人物は存在するわけがないだろう。存在したとして、ごく少数に限られるのではないだろうか。要するに、個人がその人に社会的に要求される属性を全て満たすことなどできないのである。以上に挙げた例は大仰ではあるが、社会のアイデンティティに関する共通的価値はこのような形で常に個人にある種の影を投じている。
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
ある基準からの乖離という面からスティグマを考察する時、「常人」など存在しない。社会に何らかの基準が存在する以上、その程度は異なれ全ての個人にスティグマは必ず生起する。自分自身の逸脱点と向き合ったことがない人などいない。この意味において、全ての人は「逸脱点のある常人」なのである。
ゴッフマンは結論として以下のように述べる。
アーヴィング・ゴッフマン 『スティグマの社会学』
スティグマや常人は固定的なカテゴリーではない。それらは人々が様々な社会的場面で接触する過程で生まれる、ある種の役割分担である。どのような人でも、常人として振る舞うことがあればスティグマのある人として振る舞うこともある。
もちろん、人によっては生まれ持った特質からその人生の大部分をスティグマを持つ人の役割を演じなくてはならないかもしれない。このような事情から、スティグマを常人からはかけ離れていることを示す属性として固定する見方が生まれる。
しかし、これまで見てきた通り、ある属性は個人を常人あるいはスティグマ所有者に分類するものではなく、ただ様々な社会的場面における両者の役割を規定しているだけなのである。
参考文献)
アーヴィング・ゴッフマン (2016)『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』 石黒毅訳,せりか書房