「逸脱」は、社会学においてその成立当初から取り上げられてきた主題の一つである。社会学の関心が「社会秩序はいかにして可能か」という問いにある以上、その秩序を揺るがす逸脱行為に研究者が取り組むのは当然と言えよう。
しかし、社会学領域における大きな主題であるにも関わらず、逸脱研究が体系的に行われてきたとは言い難い。その原因の一つが、逸脱の定義づけの問題である。社会科学においては常に現象の定義が問題になるが、逸脱についてもそれは同様である。どのような行為を逸脱として扱うのか、その判断は人によってさまざまであり、共通の定義を見出すことは困難であった。
本書が社会学史において重要な位置を占めるのは、これまで行われてきた逸脱の定義づけに一つの転回をもたらしたからだ。本書でベッカーが提示するこのアイデアは、現在では「ラベリング理論」あるいは「レイべリング理論」などと呼ばれている。この理論がどのようなものであり、またどういった意味で転回をもたらしたのかについてこの記事では述べていきたい。
これまでの逸脱研究の問題点
アウトサイダー、すなわち集団規則からの逸脱者は、長らく社会科学の主題として取り上げられてきたし、これからも取り上げられるだろう。しかし、研究者が「逸脱者」を対象とする際に、まさにそのことによって見落とされてきた点がある。それは、「誰を逸脱者とするのかを研究者が決定できるのか」という問題である。
何が逸脱行為とみなされるのかを決定するのは誰なのか。「集団規則からの逸脱」という場合、少なくとも研究者ではない。何を逸脱とするのかを決定するのはまさに当の集団自身なのである。
この見解は一見疑問の余地のないものに見えるが、これまでの研究はこの点を見落としてきた。つまり、社会科学者たちは客観的で自明な逸脱が存在するという前提の下で研究を行ってきたのである。
『アウトサイダーズ ラベリング理論再考』 ハワード S.ベッカー
研究者が逸脱の定義を決定してしまうことの難点は、逸脱が集団の中で形成されていく過程を見落としてしまうことである。「逸脱という現象のなかには、逸脱の判定をくだす人間、判定が進行する過程、判定が行われる状況のすべてが包括されなければならない」が、研究者による定義づけはこの過程の多くを無視してしまう。
実際にこれまでの研究者が用いてきた逸脱に関する主な定義を見てみよう。
● 統計学的な定義
逸脱に関する定義として最も単純であり、また一般的に説得力を持つとされているのが統計学的定義である。統計学的定義は、ある集団の平均値や中央値からのズレを逸脱として記述する。例えば、ある集団に所属する成人男性の一週間当たりの飲酒量の平均値を算出し、その値から大きく外れた人がいた場合、彼は逸脱者とされるのである。
このような統計学的見解は問題を単純化してしまう。そもそも、統計的に標準な人間など存在しない。平均が標準と同等なものだとすれば、全ての人間を何らかの逸脱者として扱わなくてはならなくなるだろう。「肥満体や痩せすぎの人間と殺人者、赤毛の女性と同性愛者と交通違反者が、つまりは一般的に逸脱者とみなされる者と無違反の者とがカバンのなかに一緒くたに詰めこまれるわけである」。
また、統計学的手法は数値で量的に表現できる情報しか扱うことはできない。この社会の全てを数値で表現できるのであればこの手法は有効かもしれないが、実際には社会はそれほど単純ではないのが常である。
● 逸脱を「疾患」とみなす医学的な定義
医学の領域では身体の正常な状態を阻害するものを「疾病」と判断するが、これとの類推によって「逸脱」を定義することがある。この見地に従えば、社会科学における「逸脱」とは何らかの健全な社会状態を脅かす要素と言うことができる。
この見解は先に挙げた統計学的定義ほど単純ではないが、医学的な概念を社会科学に直接導入することができるかどうかには疑問が残る。身体機能における正常と異常の区別は科学的に明らかにすることができるだろう。しかし、社会を対象にする場合、何を指して健全な状態とするかを定義することは困難である。社会は地理的条件や文化的条件によってまったく異なる機能を持つのが普通であり、人体の健康のように普遍的に認められる正常状態を見出すのは不可能だ。ある社会にとって野蛮とされる行為が別の社会では神聖な儀式として見なされるといった事例はしばしば見られることである。
このように、医学とのアナロジーにおける逸脱の定義にも無視することのできない問題が含まれている。医者のように社会科学者が社会を「診断」するといった意識の下では、研究者自身が正常と異常の区別を設定した上で研究が行われることになり、そうした手法からは逸脱が形成される過程という重要な要素が排されてしまうのである。
● 集団規則への順応の失敗という社会学的定義
社会集団には通常その集団独自の規範や規則が存在する。このような集団規則への順応の失敗や違反行為が、すなわち逸脱である。これが逸脱の社会学的定義である。この見地は、ベッカーが提示する定義にもっとも近い。
この定義には、統計的定義や医学的定義には含まれていなかった、ある行為が逸脱かどうかの基準は集団ごとに異なるといった逸脱の相対性が含意されている。しかし、この定義においても、それではどのような集団規則からの違反を逸脱とするのかが曖昧なままになっている。社会には異なる規範を持つ集団が数多く存在しており、人々は同時に複数の集団に所属するのがふつうである。ある集団の規則に基づいた行為が別の集団の規則に違反することになるという場合が考えられるが、この時この行為は逸脱と呼べるだろうか。
集団規則への違反行為が逸脱であるという定義にはいまだに社会科学者自身による独断的判断が含まれており、逸脱の実態の把握からは幾らか離れている。
「人々から逸脱と見なされた行為」としての逸脱
以上述べてきた逸脱の定義の問題は、本来逸脱とは社会の中で生きる人々によって生みだされるものであるはずなのに、それを研究者が独断的に決定してしまうという点である。すなわち、何が逸脱であるかは研究者ではなく人々自身が決めるものなのだ。
『アウトサイダーズ ラベリング理論再考』 ハワード S.ベッカー
すなわち、人々から逸脱とみなされた行為が社会における逸脱行為なのである。この定義は一見すると当然のように思えるが、研究者はその立場上、逸脱であるかどうかを決定するのは自分自身ではないという事実に気づくことができなかったのである。
逸脱とは実験室の中で研究者によって解剖されるような性質のものではなく、社会の中で常に生成変化する動的な過程と言うことができる。したがって、逸脱を研究する際に注目するべきは逸脱者だけではない。規則を創り出す人、ある人を逸脱者とみなす人、逸脱者に制裁を加える人など、逸脱のラベルを貼る過程に参加する人すべてに目を向けなければならないのである。そうしなければ、研究者は逸脱に関わる重要な変数を見落としてしまうのである。
『アウトサイダーズ ラベリング理論再考』 ハワード S.ベッカー
これまでの逸脱研究では、研究者が逸脱の判断を行ってきた。しかし、逸脱とは集団内部の人々の間で交わされる社会的交渉である以上、どの行為が逸脱化を決定する資格を研究者は持っていない。それはあくまで社会の中で生成され変化するものであり、研究者が向き合うべきはその事実なのである。
参考文献)
ハワード S.ベッカー (2011)『完訳アウトサイダーズ ラベリング理論再考』 村上直之訳,現代人文社