ジェイスン・タヴァナーは涙を流さない。 ― 『流れよわが涙、と警官は言った』フィリップ・K・ディック

「われわれは指紋、声紋、足紋、EEG波型を採りました。それを第一センター、つまりデトロイトにある総合データ・バンクに送ったのですが、該当するものがありませんでした。そのような指紋、足紋、声紋、EEG波型は地球上のどのデータ・バンクにもないのです」マクナルティは懸命に不動の姿勢をとって、申しわけなさそうに息を切らせながら言った。「ジェイスン・タヴァナーは存在しません」

 

『流れよわが涙、と警官は言った』 フィリップ・K・ディック

ジェイスン・タヴァナーは三千万人の視聴者を持つ人気TVショーのホストで、世界的なエンターテイナーだ。お金持ちで、「世界じゅうのどんな娘でも、あの大きな真鍮製のベッドに連れこめ」るほど魅力的な男性でもある。ジェイスン・タヴァナーは街を歩けば四方八方からサインをせがまれる本物のスターである。

しかしある朝見知らぬ安ホテルで目覚めた彼は、世界中の誰も彼が何者であるかを覚えていないことに気づく。さらに、身分証もないばかりか世界中のどのデータ・バンクからも彼の記録が消失していた。世界的スターから一転”存在しない男”となったジェイスン・タヴァナーは、身元不明者として警察から追われながらこの悪夢から逃れようと必死であがく、、、。

それがこの本のあらましである。だが、この物語はジェイスン・タヴァナーのものではない。この物語はあくまで警官が泣く物語だ。悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて仕方がないから泣く話だ。愛するものを失った時、人は悲しくて悲しくて涙を流す。

「でも悲しむというのは、死んでいるのと同時に生きていることなのよ。だからわたしたちの味わうことのできるもっとも完璧で圧倒的な体験なの。でもときどきね、わたしたちはそんなことに耐えきれるようには作られていないのにと、悪態をつくことがあるわ。あんまりだって ― そんな波やうねりを受ければ人間の体なんてガタガタになってしまうもの。それでもわたしは悲しみを味わいたいのよ。涙を流したいの」
「なぜだい?」ジェイスンにはその気持ちがはかりかねた。彼からすればそれは避けるべきことだった。そんなものは味わうにしても、さっさとすませてしまうことだ。

 

『流れよわが涙、と警官は言った』 フィリップ・K・ディック

ジェイスン・タヴァナーは泣かない。彼はスイックスだから。一歩間違えれば強制収容所送りという危機的状況にあり、彼自身自分に何が起こっているのかわからないにも関わらず。

だが、ジェイスン・タヴァナーがその窮地を脱するために関わる女性や彼を追う警官たちは泣く。キャシイ・ネルソンも、ルース・ルイも、メアリー・アン・ドミニクも、モニカ・ブッフも、フェリックス・バックマンも泣く。

なにかが鼻から上衣の布地にしたたり落ちた。なんてことだ、彼はぞっとした。おれはまた泣いている。手を上げて、目のあたりのグリースのような湿り気を拭った。だれのために?彼は自分にたずねた。アリスか?タヴァナーのためか?あのハートという女か?それとも彼らすべてのためか?

 

『流れよわが涙、と警官は言った』 フィリップ・K・ディック

ジェイスン・タヴァナーは紛れもない成功者であり、彼はその魅力と財産で自身の望むもの全てを手に入れられるだろう。だが、ジェイスン・タヴァナーは泣かない。彼はおそらく電気羊を夢見ない。

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