『ツァラトゥストラかく語りき』フリードリヒ・W・ニーチェ,1883-1885 ― 君は「超人」たり得るか

『ツァラトゥストラかく語りき』(原題: Also sprach Zarathustra)は、言わずと知れたニーチェを代表する著作である。

ニーチェの哲学のキーワードや思想の背景、ニーチェの生涯に関しては、本記事では語らない。本記事はただ、僕が『ツァラトゥストラかく語りき』を読んでかろうじて汲み取ったいくつかの事柄について、僕の理解を述べるだけに留めたい。なぜかというと、本書においては「要約」や「解説」は全て無意味だろうと思うからだ。本記事を通して少しでも興味を持たれた方には、原典に触れてみることを強く勧めたい。

とはいえ、本記事に先立って、本書の主人公である「ツァラトゥストラ」が説く「超人」とはどういうものかについて抜粋しておく。

 この眠りを破ってわたしは教えた。何が善であり悪であるか、まだ誰も知らない―知っているのは創造する者だけだ。

―創造する者は、人間の目的を創り出し、大地に意義と未来を与える。この者がはじめて、善である何かと悪である何かを創造する。

 

ツァラトゥストラかく語りき』新旧の石板について ニーチェ

人間の目的と大地の意義、そして未来を創造する者が、すなわち「超人」である。本書においてツァラトゥストラは、自身修行を繰り返しながら人々に「超人たれ」と説いてまわる―。

肉体について

 ああ、わが兄弟たちよ。この神はわたしが創ったものであり、人間の作り上げたものであり、人間の錯乱の産物だった。すべての神々と同じように。

人間だったのだ、神は。しかも人間と自我のみじめな一かけらに過ぎなかった。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』世界の向こうを説く者たちについて ニーチェ

「神は死んだ」の言葉通り、ツァラトゥストラは「神」や「世界の向こう側」など形而上学的な世界観を否定する。彼いわく、神は苦悩する者が自分自身の苦しみから目を逸らすために創り出した妄想でしかない。端的に言ってそれは、自分の苦しみから逃げ出し今以上を目指して努力することをやめる言いわけにすぎないのである。全てを神のせいにしてしまえれば、それほど楽なことはない。

ツァラトゥストラが神に代えて実在として提示するのが、「おのれの肉体とこの大地」である。ツァラトゥストラは語る。肉体は、「あらゆるものなかでもっとも奇妙」だがその存在を「もっともよく証明されている」もの、すなわち「自我」あるいは「自己」を内包しているものであると。

自我は「想像し、意欲し、評価する」。そして「一切のものの尺度であり価値である」。しかし、自我が経験する思考や感情はあくまで肉体を通して行われるものである。肉体と大地からの刺激なしに、自我が何かを思考することは不可能。そうであるならば、自我は精神的なものとして確かに存在するにしても、自分自身の肉体もまた確かに実在するのである。

 「自己」はつねに聞き、探す。比較し、制圧し、征服し、破壊する。それは支配する。「われ」の支配者でもある。

わが兄弟よ。君の思考と感情の後ろには、強大な支配者、知られざる賢者がいる。―それが「自己」である。彼は君の肉体のなかに住む。彼は君の肉体である。

君の最高の知恵よりも、君の肉体のなかに、より多くの理性がある。だが、君の肉体が君の最高の知恵を必要とするのは、一体何のためか。それを誰が知ろう。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』肉体を軽蔑する者たちについて ニーチェ

むしろ、ツァラトゥストラは、むしろこの大地に実存する肉体こそが創造する主体であり、精神は肉体の創造物であるとさえ語る。

 創造する「自己」こそが、おのれのために、尊敬と軽蔑を創造した。快楽と苦痛を創造したのだ。創造する肉体は、おのれのために、精神を創造したのである。みずからの意志の手先として。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』肉体を軽蔑する者たちについて ニーチェ

ツァラトゥストラはこの肉体こそが実在する自分自身の本質であると教える。肉体が病めば精神もまた病んでいく。そして最終的に現にあるこの大地から逃避し、「神の国」に救いを求めることになるのだ。「神の国」に救済を求める限り、「この大地」において現実を生きることはできない。この大地に新たな価値を創造しようとするならば、それは健康な肉体を通して行われるはずなのだ。

 わが兄弟たちよ、むしろ健康な肉体の声を聞け。もっと正直で、純粋な声だ。

健康な肉体、完全で、まがっていない肉体は、もっと正直に、純粋に語る。そう、大地の意義について語るのだ

 

『ツァラトゥストラかく語りき』世界の向こうを説く者たちについて ニーチェ

徳について

 わが兄弟よ。君がひとつの徳をもっていて、それが君自身の徳であるならば、それは何者とも共有できないはずだ。

むろん、君はその徳について名前をつけて愛撫したいと思うだろう。君はその徳の耳を引っぱって、もてあそびたいと思うだろう。


むしろこう言うべきだ。「わたしの魂にとって苦痛であり甘美であるもの、またわが内臓の飢えであるものは、言い表しがたく名もない」と。

君の徳は、なれなれしい名前で呼ばれるには高貴にすぎるものであってほしい。それについて語らねばならないときは、口ごもりながら語ることを恥じるな。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』歓びの情熱と苦しみの情熱 ニーチェ

「徳」とは何かを決めるのは一体誰なのだろうか。ツァラトゥストラは、それは君自身で決めるしかないのだと語る。

一般的に、「善いこと」とは、「自分以外の何かにとって良いこと」だと考えられてきた。例えば、「神にとって良いこと」や「他者にとって良いこと」がすなわち「善いこと」であるというわけだ。しかしこれは、善い/悪いの判断基準を自分以外の何ものかに依存しているということである。

ツァラトゥストラにとって「人間」(と人間の妄想の産物である神)は乗り越えられるべき何かである。人間が設定した価値基準に基づいて行動している限り、人が人間を超えることはできない。したがって、人は他者が恣意的に設定した価値判断を越えて、自らが自らにとっての「善いこと」を探し出さなければならないのだ。

 かつて君は情熱に苦しんでそれを悪と呼んだ。だが今や、それはすべて徳なのだ。苦しい情熱から生まれたものなのだから。

君はこの苦しみの情熱に、みずからの最高の目的をふかく刻んだ。こうしてそれは君の徳となり、歓びの情熱となった。

たとえ君が、癇癪持ちの血筋であろうと、好色の、狂信の、または復讐狂いの血をひいていようとも―

ついに、すべての君の苦しい情熱は、徳になった。すべての悪魔は天使に。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』歓びの情熱と苦しみの情熱 ニーチェ

人が人生の中で体験することや考えることは一人一人違う。それなのに、どのようにして万人に共通の徳など存在できるのだろうか。

自分自身を究極的に規定する善い/悪いの判断基準を他人任せにするべきではない。自分自身を究極的に規定する自分だけの徳、それは時に自分や他者を傷つけてしまうほどの情熱であり、時に「悪」ともなり得るものである。

現代風に言い換えるならそれは、理想やコンプレックスに近いものかもしれない。それに正面から向き合うことほどつらいことはない。しかし、自分にとっての徳はその中から探し出さなければならない。ツァラトゥストラが要求するのは、結局のところ自分自身との対峙なのだ。いつかそれが自らを破滅させるとしても。

友について

 わたしが諸君に隣人愛を勧めると思うか。わたしがむしろ勧めるのは、隣人からの逃走であり、遠人への愛だ。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』隣人愛について ニーチェ

ツァラトゥストラは、隣人愛を否定する。隣人とはつまり、今の自分と近しく群れてなれ合う者のことだ。そして隣人愛の正体は、自分を愛することができない人が自分と向き合うことから逃れることである。自分と向き合うことのできない者同士が集っても、そこで自己の高め合いが行われることはないだろう。自分と近しい人間と群れている間は、今の自分を越えて創造者となることはできない。

ツァラトゥストラは、隣人への愛に代えて遠人への愛を説く。遠人とは「君に先だって行く幻影」のことだとツァラトゥストラは言う。これはつまり、自分が思い描く理想の自分の姿のことだと解釈していいだろう。「理想の自分」にしろ「超人」にしろ、今この瞬間には存在していない未来の自分自身を何よりも愛することによって、今この瞬間の自分を越えようと努力することを、ツァラトゥストラは求める。

 隣人への愛より高いもの、それは遠人への愛、来るべき人への愛だ。人間への愛より、物事や幻影への愛のほうが高い。

わが兄弟よ。君に先だって行く幻影は、君よりも美しい。なぜ君はそれにおのれの骨肉をあたえないのか。だが君は幻影を怖がって、隣人のもとに走る。


もっとも遠い未来こそが、君の今日の動機であれ。君の友のなかで、君はみずからの動機としての超人を愛さなくてはならない。

わが兄弟よ。わたしは諸君に隣人愛を勧めない。わたしは諸君に遠人への愛を勧める。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』隣人愛について ニーチェ

そしてツァラトゥストラが語る「友」とは、最も身近な「遠人」であり「超人への予感」である。

 わたしは諸君に隣人を教えない。友を教える。友こそ諸君の大地の祝祭であれ。そして超人への予感であれ。


わたしは諸君に友を教える。そのなかで世界がすでに完成している、善の受け皿である友を。―完成した世界をいつでも贈ろうとする、創造する友を。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』隣人愛について ニーチェ

友とは、その内に自分自身の世界を持ち何かを創造しようとする者のことだとツァラトゥストラは言う。そしてそうした友の姿に「理想の自分」を重ねることで、さらに自分自身を高めていくことを求めるのだ。

お互いがお互いの理想の姿であるという関係でいるためには、本当にお互いのことを尊敬し合い学び合うためには、時にお互いが敵になるという覚悟をする必要がある。友が自分にとって最も遠い理想の姿である以上、また自分が友にとっての理想の姿として接する以上、どれだけ相手のことが大切でも常に一定の距離を取らなければならない。

 「せめて、わたしの敵であれ」。―友情をせがむことはしない、本当に畏敬の念を持つ者は、このように言う。

友になろうとするならば、友のために戦わねばならない。そして戦うためには、敵になることができなくてはならない。

友のなかにいる敵を敬わなくてはならない。君は友に近づきすぎて、一心同体にならないでいることができるか。

友のなかにおのれの最高の敵がいなくてはならない。君が彼に逆らうとき、君の心がもっとも彼に近づいていなくてはならない。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』友について ニーチェ

自分は友と戦うことができるか。また、自分は友にとっての敵となることができるか。お互いのためを思うからこそ敵になる。それができる相手こそ、自分にとって本当の友なのだ。

最後に

以上の数少ない抜粋からでもわかる通り、「超人」たろうとすることは容易ではない。むしろ、目の前の苦難に正面から立ち向うことを求める非常に厳しい思想だ。

だが、それでもツァラトゥストラは圧倒的なまでに「生」を肯定する。どのような苦難が待ち受けようと、ツァラトゥストラは立ち向かう。人間を超えるべきものと説き、常に高みを目指すその姿から、僕たちは勇気を学ぶことができると思う。

 見よ、ここにいるやつれ果てた人を。目的まであと一歩というのに、疲れのために埃のなかに倒れて、かたくなに動こうとはしない。この勇敢な人は。

疲れのために、道にも大地にも目的にも自分自身に対しても、口をあけて眺めているだけだ。もう一歩も前に出さぬ―この勇敢な人は。

今や陽は照りつけ、犬どもが汗を舐める。だがかたくなに身を横たえたまま、むしろ死を待っている―。

―目的まであと一歩だというのに、命果てるとは。君らはその髪をつかんででも彼をその天国へ引っ張り上げずにはおれないだろう―この英雄を。

だがその場所に倒れたままにしておくほうがよい。やがて眠りという慰め手がおとずれ、蕭々たる雨で彼を冷やすだろうから。

寝かせておくがいい、ひとりでに目を覚ますまで。あらゆる疲労から癒え、疲労に教えこまれたことを取り消すまでに至るまで。

ただ、わが兄弟よ。彼に寄ってくるあの犬どもを追い払ってやるがいい。あの陰でこそこそしている怠け者たちを。そして群がり集る蛆虫どもを―。

―「教養人」という群がり集る蛆虫どもを。英雄たちの汗を舐めて―楽しむ虫だ―。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』新旧の石板について ニーチェ

 

だが、わたしの愛と希望にかけて願う。君の魂のなかの英雄を投げ捨てるな。君の最高の希望を聖なるものとして持ち続けよ―。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』山上の木について ニーチェ

 

諸君には勇気があるか。わが兄弟よ。大胆であるか。見てくれている者があってこその勇気ではなく、もはや神も見ていない孤高なる者の勇気、鷲の勇気があるか。

冷えた魂、騾馬、亡者、酔漢を大胆などとは呼べぬ。恐れを知り、かつ恐れを克服する者こそが大胆なのだ。奈落の深淵を見ているが、誇りをもって見ている者が大胆である。

鷲の目で深淵を見る者、―鷲の爪で深淵を掴む者、それが勇気がある者だ―。

 

『ツァラトゥストラかく語りき』貴人について ニーチェ

参考文献)

フリードリヒ・W・ニーチェ (2015)『ツァラトゥストラかく語りき』 佐々木中訳,河出書房新社

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です