社会科学の知識は一体何を可能にするのだろうか。自然科学についてならば、この問いに答えることは比較的簡単だ。自然現象の解明や科学技術の進歩は、最終的には人々の生活を豊かにすることに繋がっている。
社会科学の知識は、自然科学と同じ意味で人々の生活を豊かにすることはないだろう。むしろ、人々の日常生活に疑問を投げかけ、それを解体し、その背後に潜むものを暴くことによって、人々の日常生活の幸せを減ずるものであるかもしれない。
それにも関わらず、もし社会科学に何らかの機能があるとすれば、それはどのようなものなのか。本書『参加と距離化―知識社会学論考』(原題: Engagement und Distanzierung : Arbeiten zur Wissenssoziologie I)はその問いに対して一つの可能な回答を示すものだ。
著者のノルベルト・エリアス(1897~1990)は、ドイツ生まれのユダヤ人である。1930年からドイツのフランクフルト大学で助手として勤めていたが、ナチスの台頭に伴いスイス、パリを経てロンドンに向かう。その後も拠点を転々とし、最終的にはアムステルダムの地で亡くなった。
エリアスはその生涯において居場所を変え続け、ある特定の社会に深く入り込むということがなかった。放浪者的ともいえる彼の生涯は、本書で紹介する「参加」と「距離化」という概念の形成にも関わっているのかもしれない。
「大渦の中の漁師」
エリアスが用いる「参加」と「距離化」という概念についてまずは見てみよう。「参加」とは、要点をわかりやすく強調して言うなら、自分が今いる状況を当たり前のこととして受け容れ、その状況に対して疑問をもたずに流されるままになることだ。一方で「距離化」とは、状況に流されることを止め、状況から距離を取って客観的に観察することをいう。
ある状況に対する態度は、通常、これら二つの態度の間に位置している。その状況やその人のパーソナリティーによって「参加」と「距離化」のバランスは決まる。どちらか一方の態度のみを取ることは、人が社会で生活している以上は不可能だろう。
この「参加」と「距離化」という考え方を捉えるために、エリアスが引用したエドガー・アラン・ポーの「大渦の底へ(原題:A Descent into the Maelström)」という短編小説を見てみよう。
これは漁師をしている兄弟の話である。ある日二人の乗った船は運悪く嵐に遭遇し、大渦巻の中にとらわれてしまった。船は制御を失い、だんだんと渦巻の中心に引き込まれていく。
はじめのうち、二人の兄弟は恐怖のあまりになすすべもなく船の中にうずくまっていた。しかししばらくすると弟は冷静さを取り戻し、大渦を観察しはじめる。船の破片など様々なものが渦の中に呑みこまれていく様子を観察していると、彼はある法則性に気が付いた。
どうやら円柱状の物体は他の物体よりも、また、小さい物体の方が大きい物体よりも、ゆっくり沈むようなのだ。そこで彼は、円柱状の樽に自分の体を結びつけ、一か八か、海に身を投じた。
彼は兄にも同じようにするように伝えたが、兄は恐怖に身をすくませたまま身動きをとることができなかった。渦巻が収まった時、弟の方は海底に沈むことなくなんとか持ちこたえていた、一方、兄を乗せた船は渦巻に呑みこまれたまま、戻ることはなかった。
この寓話から読み取れることは何だろう。それは、自分自身の置かれている危機的状況から脱するためには、事態を冷静に客観的に観察し、妥当な解決策を探さなければならないということだ。
「参加」しかできなかった兄は感情に流され状況を把握できず、弟が示した打開策を試すことすらできなかった。一方「距離化」に成功した弟は、恐怖がありつつも、客観的な観察を基に妥当な対応を行い九死に一生を得ることができた。
つまり、自分が「参加」(巻き込まれている)している状況に適切に対処するためには、そこから「距離化」(距離を取って観察する)する必要があるのである。
『参加と距離化―知識社会学論考』ノルベルト・エリアス
「自然」としての「社会」
ある状況に対する「参加」と「距離化」という態度は、「大渦の底へ」の寓話のように、自然現象に対してのみ当てはまるものではない。人間の意図を離れて巻き起こる自然現象に関してならば、客観的な分析を通して合理的な対処を行うべきだと言うエリアスの主張は比較的わかりやすいものだろう。
しかしエリアスが本書で強調するポイントの一つは、人間にとって制御不能な危機的状況として現れるものは自然現象だけでなく、社会的な諸現象もまたそれと同様のものとして現れるということだ。
『参加と距離化―知識社会学論考』ノルベルト・エリアス
つまり、僕たちが「社会」と呼んでいるものは、個人にとって制御不能なものであるという意味において「自然」と同様のものなのである。
「社会」は、一般的な理解では、各個人の行為から説明可能だとされている。しかし、複数の個人の集合体である「社会」において、各個人の行為には還元できない現象が起こるということは、僕達自身の経験や歴史からも明らかだろう。その社会の成員の誰もが意図しない不可思議な現象が発生する「社会」は、「自然」と同様の無秩序な現象が起こり得る場所なのだ。
二重拘束
「社会」では、個人にとっては制御不能な現象がしばしば発生する。このような現象には様々なものがあるだろうが、本書でエリアスが考察する社会現象は、エリアスが「二重拘束(ダブル・バインド)」と呼ぶものである。「二重拘束」とは一体何であるか、エリアスの説明を見てみよう。
『参加と距離化―知識社会学論考』ノルベルト・エリアス
この引用で言われている「強制装置」というのがすなわち「二重拘束」のことだ。「二重拘束」とは簡単に言うと、危機的状況に直面した時に妄想的にその状況の危険度を見積もってしまうことである。
おそらく誰もが経験したことがある。何らかの危機が訪れた時、ありもしない不安に襲われ、必要以上に攻撃的になったり危機的状況なのにもかかわらず身動きが取れなくなったりすることがあるだろう。これは、その危機的状況に対して行き過ぎた「参加」をすることによって合理的な判断ができずに大渦に呑みこまれた兄が襲われた現象と同じだ。
危機的状況に陥った際、人は感情に流されて合理的な判断ができなくなる。この現象はある社会の内部に生きている個人に対してのみならず、ある「社会」に対しても適用可能である。つまり、社会と社会同士の関係において―典型的には国家と国家の関係だが―ある社会全体が陥る現象でもある。エリアスは、ある社会全体が陥る「二重拘束」による危機的状況の例として、核戦争を例示する。
二重拘束と核戦争
『参加と距離化―知識社会学論考』ノルベルト・エリアス
国家は合理的な意思決定を行わない、というのは、もはや周知の事実かもしれない。このことをもっとも端的に示しているのが核兵器の所有である。合理的に考えれば、核兵器を製造・所持することは人類にとっては無用なリスクである。なぜなら、現在の複雑に絡みあった国際社会において、もしどこか一国でも核兵器を使用することがあれば、それが全世界的な核戦争に発展することは明らかだからだ。
にもかかわらず、なぜ国家は核兵器を持つことを止めないのか。それは、相手国が核兵器を持つことによって自国の生殺与奪権を持つことに対する恐怖があるからだ。お互いがこの恐怖を持っているため、恐怖はますますエスカレートしていく。こうして両者ともに自国の安全をより確かなものにしようとしているのにもかかわらず、世界はますます危険に満ちたものになっていく。
本書の出版に先立つ1962年、核戦争はキューバ危機という形で具体性を帯びたものになった。巨大国同士の恐怖のエスカレーションが破滅的な戦争をもたらす可能性は、現実のものだったのだ。この事実が、エリアスが本書で「二重拘束」及び「参加」と「距離化」という概念を提示する必要があった一つの思想的背景である。
渦から逃れるために
この参加と距離化の問題および二重拘束の循環作用を見つめる眼を研ぎすましておくことは有益であると思う。多分われわれはこの方法で、こうした過程が人間の思考や行為に及ぼす強制をわずかなりとも軽減することに寄与するであろう。なぜなら、われわれは大渦にのまれて流され、既にもう引き返せない地点まで来てしまった、などと考える根拠はないからである。
『参加と距離化―知識社会学論考』ノルベルト・エリアス
感情のエスカレーションによる二重拘束はどのようにして解くことができるのだろうか。完全に解くことはできないだろう。しかし、その状況から「距離化」することで、危機を多少は軽減することができるかもしれない。
核戦争などというと大げさではあるが、僕たちはしばしば日常生活の中で何らかの危機を迎える。個人としての問題はもちろん、自らが所属する集団としてのトラブルも生活していれば必ず遭遇する。個人や集団が何かしらの危機的状況に陥ったときに、一旦距離を取ってその状況を客観的に観察することは必ず危機脱出の糸口となるはずだ。
社会という不可思議な現象に対して、「距離化」を通して少しでも客観的な視点を確保すること、またそうした視点を少しでも多くの人々に持ってもらうこと、それが社会科学が負っている使命の一つなのではないだろうか。
参考文献)
ノルベルト・エリアス (1991)『参加と距離化―知識社会学論考』 波田節夫/ 道籏泰三 訳,法政大学出版局